或る日の店長との会話
「前に市川さんは、『お客さんはおカネをくれるけど儲けさせてくれない。業者さんはおカネを払うけど儲けさせてくれる』とか言ってましたよね。なんか最近、僕もちょっとわかってきたような気がするんですよ」
「店長、よく覚えてましたね。すごいです。で、どんな時に分かった感じがするんですか」
「いや、たとえば、納品業者さんがいるじゃないですか。会話してみると、他社の動向とか安い販促物の情報とか、いいことを色々言ってくれるんですよ」
「おお。そういうことを意識できるのはすごいですね」
「ああ。意識ですねぇ。いや、それでまずいなと思ったのは、副主任ですよ。これから主任昇格前後で、外部との接触が増えるじゃないですか。そうすると、外部への会社の顔みたいな感じになる訳で、ギリギリ名刺交換とかのマナーは大丈夫なんですけどね。副主任のFを知ってますよね。あいつはまじめ過ぎて、事務的な手続きを面と向かって外部の人に迫る感じなんです」
「はあ。まあ、なんとなく店長の仰りたいことはわかりましたよ。研修で治しましょうか、とりあえず」
「は。こんなことって研修することなんですか」
実際に店舗の現場で発生しているシーン
この店舗ではポケット・ティッシュも納品業者さんを通じて購入していました(※)。副主任のFさんに尋ねてみると、その日の午後、注文したポケット・ティッシュの納品に、彼女が対応する予定だということでした。そこで、受け取りをする事務所隅の場所のすぐ近くに私は陣取って、販促用のミニチラシをポケット・ティッシュに挿入する作業をしながら納品業者さんを待つことにしました。
現れた納品業者さんに対してFさんは、にこやかな表情はしているものの、単純に「ここにおいてください」と指示をしつつ、書類に押印して、「お疲れ様です」と業者さんを送り出そうとしました。若い男性の納品担当者は、普段見慣れない私に「お疲れ様です。いつもお世話になってます」と挨拶をしたので、私は「ああ、いつもお疲れ様です。今日も大変ですね。この後もたくさん回るんですか」と尋ねました。「この近所のお店を幾つか回るだけなので、全然大変じゃないですよ」と明るく答える彼に、こちらもニコニコしながらどんどん尋ねてみると、競合店が小型の濡れティッシュを店内で配布する検討をしていることが分かりました。(※)
数分後、納品業者さんが去って、私が振り返ると、FさんはさっさとPC作業を始めていました。私が「業者さんと話しちゃいましたよ」と話しかけると、彼女は「市川さんって、いろんな人に愛そうよく対応するんですね」と普通に答えました。到底、「他店の情報を聞き出しているんですね」という理解はありませんでした。
※)文中で描かれている販売促進策は研修実施当時の店舗運営規制基準に則ったものです。
個別カスタマイズ研修の企画と実践
「情報を引き出す雑談」にテーマを絞って副主任向けの研修を組み立てることにした私は、業界情報にどうしても雑談が行きつくような話し相手を検討して、業界誌の出版社に思い至りました。
この店舗は東京都内なので、高い交通費が発生することなく、業界誌の出版社を訪ねることができます。そこで、私は店長の了承を得てFさんを呼び、業界誌の出版社を訪ねて、バックナンバーを購入してくるように指示しました。
この「初めてのお遣い」的な研修課題には条件を色々と設定しました。まず、ボイスレコーダーを建物の入口段階からオンにしておき、建物を出るまで録音をしてもらうことにしました。また、バックナンバーは号を指定するのではなく、接遇面以外のお客様満足向上策についての記事が載っているバックナンバーを先方の応対した方に相談して5号各一冊買ってくるように指示しました。さらに、先方担当者との会話は会計の手続き以外の部分で20分を超えることにしました。
私の予想通り、まじめな性格のFさんは訪問前にその業界誌の記事構成や連載記事を読み込んで、簡単なメモを作るなどの準備をして本番に臨みました。当然ですが、言ってはいけない営業上の秘密事項などは主任からレクチャーしておいてもらいました。
カスタマイズ研修後の様子
私が翌月訪問すると、店長は「あれは、ホントに面白い研修でしたよ」と言われました。出版社での状況報告と買ったバックナンバー、そして、録音結果から店長は合格を出したとのことでしたが、その後、特段Fさんの様子は変わりませんでした。そこで、店長が「F。今後、業者さんから色々業界情報を雑談で聞き出して、週一で報告して」と指示を出したら、突如業者さん対応が変化したのだそうです。「出版社訪問で雑談で情報を引き出す自分なりのコツが分かったんでしょうね」と店長は笑っていました。