中小零細企業における大卒者と女子社員の活用がどのようにあるべきかを以下のようにまとめてみました。ご高覧下さい。

第一章 大卒者の優位点を考える

第一部 大卒者は中小零細企業でも十分手が届く範囲にいる。

中小零細企業では、大卒者の採用を見合わせている所が多々あります。その理由は、主に、
(1)採用方法が特殊であり、一般に手間(=コスト)が掛かる。
(2)採用方法が特殊であり、“売り手”である学生に阿るような方法が気に食わない。(3)大手企業との取り合いになり、内定を出しても、入社の確率が低い。
(4)大卒者を採用しても、その使い道が特にない。
(5)大卒者は同じ若者でも人件費が高い。
(6)大卒者を雇うなら、高卒や専門卒の段階で安く雇った方が、元が取れる。
(7)大卒者を育てる仕組みがなく、育てる者もいない。
(8)大卒者は一般に高卒や専門卒よりも不真面目であり、使いづらい。
などのいずれかの組合せであるように思います。

確かに大卒者の採用は、その経験が乏しい中小零細企業にとって面倒なものですが、後述するような、他の人材にはなく、大卒者一般に見受けられる強みを考える時、経営の強化への早道である面も否定はできません。

また、一方で、少子化により、若年人口が減っていく中で、大学進学者の比率は上昇の傾向にあり、現時点でも大卒者は若手人口の三分の一を占めます。大卒者を除けて採用を行い続けることの方が、困難になることさえ予想されます。

私は大学で“会社で働くこと”の一般常識を「就労観教育」と称して、講義の形で教えています。学生達のとの接触で感じるのは、学生達が、そして、その親や学校の教師なども、働くことの現実や、遣り甲斐の何たるかなどを実感していません。その結果、(全く根拠のない幻想と化して来ておりますが)「良い会社」に入ることにのみ人生を賭ける者や、(これも全くの幻想ですが)「社会に貢献できる仕事」に就くことに執着する者が多数見受けられます。

しかしながら、大手企業も経営不振で、倒産劇がニュースなどで嫌と言う程に報道された結果、学生達が会社を選ぶ基準も、混沌としてきました。今や会社の規模や知名度、売上額などはあまり問題にはならず、(再び、これらも殆ど根拠のないような妄想ですが)「自分に向いているか」や「自分の能力を活かせるか」などに選択根拠は移って来ています。

それは、つまり、中小企業であろうと、3K職場さながらの零細企業であろうが、彼らに、「遣り甲斐があり、社会貢献性があり、さらに、自分が活かせ、期待される場であること」を伝えさえすれば、採用の可能性が多いにあることを指します。

このようなことを色々と考え合わせていく時、中小企業・零細企業と言えども、大卒者を新卒で採用することがそれほど可笑しなことではなく、また、無理なことでもないことがご理解戴けるものと思います。そこで、第一章の以下の部分では、あくまでも、一般的な大学(つまり、東京で言う六大学を始めとする少数のブランド大学を除く大学)の平均的な大学生をイメージしながら、その高卒者・専門卒者に比べた時の優位点について、一般論を考えてみます。

第二部 大卒者の最大の優位点は、未来指向であること

「大学生は講義にも満足に出ず、4年間遊んでいる」とよく評されます。一般論で言うなら、特に人文系の学科の学生はその通りでしょう。学生達は受験勉強の反動で、また、(最近その割合は減っていると言われてはいますが、)学生によっては親元を離れた反動から、遊びに走ると言うのも、本当でしょう。

仮に4年間遊べると分かっていても、言わば「遊びたい盛り」の高校時代を、テレビゲームも我慢し、夜にどこかの街で屯することも我慢して、仮に高校3年間を過ごしたとするなら、彼らの動機は何であるのでしょうか。端的に言ってしまうと、その方が「良い暮しができるから」と言う漠然たる未来観でしょう。無論、それは、親や周囲が押し付けた価値観で、それを無為に受容れている学生も多々いることでしょう。また、大学時代に何か学業以外にやりたいことがあり、その4年間を得るための投資としての高校時代の受験勉強ということも考えられます。

勉強自体も、余程成績が良い学生なら、楽しくもあるでしょうが、大多数の学生には楽しいものではないことでしょう。砂を噛むような時間を、実現することが保証されていない4年間の漠たる楽しみの為に、数年間に渡って費やす経験。そして、それを良しとすることができる考え方。これが、私は大卒者の最大の強みであると思っています。

考えてみると、人生そのものもそうですが、経営も本質的には、測ることのできない未来のリスクを押さえこむために、今の何かを犠牲にすることの連続です。経営努力が必ず報われるとは限らず、その経営努力を実際に行う社員の努力も、単に「生活のための仕事」と割りきって行なえるほど、生易しいものではありません。無論、理屈抜きで、“業務命令”で、努力を強いることも可能ですが、できるなら、不確かな「明るいかもしれない未来」を作るという意味で努力をしたいものです。会社での仕事をこのように受け止めることができる可能性が高いのが、大卒者の社員としての特長と言えるでしょう。

それは、「良くなる未来に繋がる可能性」が、根源の部分で動機付けになり得ると言うことですので、単に居場所を作ったり、成長を実感させる以外に、彼らが属する組織の可能性を伸ばすことさえも動機付けとなりやすいと考えられます。逆に言うと、そのような要素がなく、ただ、居て楽しく、何とはなしにできることが増えるだけの職場では物足りなく感じる部分もあることでしょう。

第三部 大卒者は学習の仕方、課題解決方法を本質的には体得している

私が留学時代に、「大学教育の意義とは」と言う議論をよく耳にしました。それは多分、日本人に比べて短期的・即物的な結果・効果を求めることが多いアメリカ人が、大学生になってみて(高校までは日本人学生の場合に比べて、(少なくとも当時は)本当に勉強する時間が少ないので)、不慣れな勉強体験の連続に音を上げて、自分のやっていることの意味を考え直そうとしたと言うことだと思われます。

その議論の結論は、通常、「大学教育は、ヒトをナイーブでなくして行くもの」であるということでした。「ナイーブ」の本来の英語の意味は、「社会のことを知らないアマチャン」と言うような、かなりネガティブなものです。「ナイーブ」と評されて、喜ぶ者を見たことがありません。そうすると、大学教育の意義は「ヒトを社会にスレた状態にする」と言うことになります。

高校までは「習う」のであって、大学からは「学ぶ」ことが始まるとも言われます。高校でも、多少は答えのない問題を考えさせることはあるでしょう。例えば、読書感想文などは、正解がなく、自分の思うことをまとめるものであるのに、提出すれば優劣が明らかになる訳ですので、正解のない課題をどう解くかが問われていると考えるべきでしょう。大学では、一般に正解がない課題を解く機会は増え、さらに、課題の解き方も自分で探し選び、場合によっては、何が課題であるのかを見つけるところから、ことが始まるケースへの対処が要求されます。

極端な比較かもしれませんが、卒業の可否は、高校では出席日数と(定量的な)成績によって決まります。多少の選択科目はありますが、基本は皆、同じ土俵の中の優劣です。これに対して、大学では、卒論のできが重要なファクターです。その卒論は先の読書感想文同様に、優劣が明確に判定できるものではなく、おまけに、テーマの選択まで学生に(基本的には)任されています。卒業に必要な単位の取得数は明確になっていますが、選択科目は非常に多く、何をどう選ぶかは自分次第で、自分で考えることが強要されます。

大学の教授の会議に非常勤講師として出席したことがあります。教授達の発言を聞いていて気付くことが一つあります。私は、大学は学生達の授業料で維持運営されているので、教育サービスの品質を上げることが、大学経営の基本だと考えていました。しかし、彼らの認識は違います。彼らの本業は、自分の専門分野を研究し、論文を学会で発表することであって、学生にはそのおこぼれを分け与えているに過ぎません。ですので、非常勤講師になる際に資格審査の書類を出すよう指示されましたが、その書類に他校での講義の科目名も学生達からの評価も書き込む欄はありませんでした。非常勤講師の報酬月額も、大学卒業から何年経っているかによって、自動的に決定されます。

つまり、「大学の先生」は、学生達に理解することを期待していません。しかし、学術的に一定レベルに達したか否かは、先生達の持論を聞くものの評価としては必要です。よって、先生達の十八番の「論」によって評価をすることになります。そこには決まった課題もなければ、決まった解決の方法もありません。求められていることを考え出し、それに相応しい課題を考え出し、それに対して自分なりの解決方法を提示する。このようなプロセスが反復されるのが、大学生達が受ける教育と考えて良いでしょう。これは経営における“現場力”に通じる能力と考えられます。

課題解決に当たることは大学生のみならずありますが、自ら課題設定する機会が発生する教育プロセスは大学教育以外にはなかなかありません。このような中で、学生達はその能力を磨く訳ですが、自ら課題設定をして良いと言うことは、安易な課題を設定して、安易に解決する余地もあるということを指します。つまり、「論文」(=一般にはレポート)の量と体裁さえ整えば、内容は多少いい加減でも良く、まして、内容がいい加減でも通るようなテーマ設定をすることも自由と言うことです。

このような可能性が否定できないどころか、大学生の単位取得のための苦労話などを聞くにつけ、大学教育は前述のような、ある種の「やり過ごし」の訓練と見ることができると思い至ります。

つまり、何かのレポートを課題として出された時
●テーマを自分にとって楽なものに設定してもよく、
●資料もそれほど集めなくても、体裁さえ整えば良く、
●内容が多少怪しくても、期限に間に合うことのほうが重要で、
●最終的な評価が悪くても、
「自分はこう解釈したからこの結果になった」と抗弁する余地がある

のように、やろうと思えばできると言うことになります。課題解決の基本中の基本は、解決できる課題を設定することです。大きな課題や、複雑な状況に直面した時に、上述のような対処の経験は、少なくとも、課題解決をすることに動揺しない人間を作ることでしょう。それは、取りも直さず、決まった形の答えの追求とは対極にある、「妥協すること」や「清濁併せ呑むこと」、「取り敢えず良しとすること」の可能性を広げます。

これは、東大教授の高橋伸夫氏による『できる社員はやり過ごす』にも登場するような、仕事のできる社員の態度そのものです。

第四部 大卒者は社会性が高く、組織内での泳ぎ方を知っている

大学での教育を高校での教育に比較する時、(これは習うと学ぶの違いにも通じますが)学生が教室で過ごす時間が圧倒的に少ないことは論を待ちません。理系や各種の専門大学(美大なども含む)ではそれなりの拘束時間があるものと思われますが、それでも尚、先述のように、「やり過ごせる」範囲で自己裁量による時間消費の余地が大きいことに変わりありません。

これらの空き時間を学生がどのように使っているかを考えてみます。まず、考えられるのはサークルでしょうか。これも、高校などに比べて、拘束力が弱いケースが多く、複数のサークルに参加も可能なレベルです。サークルも各種あり、学内のものや幾つかの大学横断のものもあります。さらにこれに、市民サークルやボランティア団体、NPO法人などが加わり、多様性が増します。この延長線上に学生起業などもあり得ます。

勿論、バイトに励んでいる時間も多々あることでしょう。現実問題として、私の講義でも、夕刻からはじまる時間に講義を行う学期は、学生達の数が桁違いに下がります。その殆どは、飲食店やコンビニなどの割の良い夜のシフトのバイトに励んでいるといいます。私の定宿のビジネスホテルでも、夜勤番は正社員一名に大学生アルバイト二名の体制です。さらに、資格取得などの勉強に励んでいる者もいます。所謂ダブルスクールで、司法試験や公認会計士の試験に臨んでいる者もいますし、英語を始めとして外国語を習っている者もいます。

このような場では、どのような組織構成員が待ち受けているか分かりません。学内のサークルでさえ、比較的広域から集まった年齢の違う学生が集いますが、それがボランティア団体やNPOなどに至っては、社会人との接触が非常に多くなります。バイトや資格の学校などでも同じことです。時に先輩として、時に上司として、時に学友として、社会人との接触が頻発し、社会人をも含む組織の中で身を処すことが必要になってきます。

それは例えば、そのような組織の人々と、例えば、飲み会に行った時に、どのような話題を話し、どのような風に振舞えば良いのかとか、どの程度の気遣いをしたりされたりすれば良いのかということでもあります。

このような体験を経て、大学生は組織内での階層関係とその中の自分の位置の取り方を学ぶと共に、色々な意見・考え方を受容・許容できるようになって行きます。これは高校や専門学校で豊富にできる体験ではありません。

また、このような経験を共にした人々との人脈も形成されます。人脈の形成には体験の共有、さらには苦労の共有が一番であり、大学生の講義外での活動にはそれが溢れています。帝国ホテルの地下には三田クラブと言う、慶応義塾大学出身者で会社役員のみが(高い会費を払って)参加できるというラウンジがあります。私もそこのメンバーであるクライアント企業の社長の同伴で何度も行ったことがあります。そこでは、全く面識のない者同士でも、卒業期の確認から、サークルや教授など共通の話題の見出しに入り、さらに、ビジネスなどの相談事に話が展開していく様が観察できます。

このような結束は、必ずしも、大学一般のものとして例とするには相応しくないでしょうが、その強弱に関わらず、何らかの学内の人間関係や、学生時代に接触のあった人物・組織との関係が存続し得る所に大学生の強みがあるのは言うまでもありません。また、仮に人脈として整理・維持されていなくても、人間は経験の束縛から逃れられない以上、多様な人間関係の中に身を置いた経験が、視野を広めることも疑いありません。前項の課題解決の基礎力と考え合わせる時に、多角的な課題へのアプローチが可能になりやすいとは言えそうです。

第二章 女子社員の優位点を考える

第一部 女性の同質性についての論点

私の好きな映画で『デブラ・ウィンガーを探して』と言うものがあります。この作品はロザンナ・アークェットと言う女優が、結婚を機にあっさり引退してしまった大物女優デブラ・ウィンガーのキャリア観の謎解きをすべく、友人のハリウッド女優数十名に対して、その「結婚と仕事」と言うテーマでインタビューを重ねて行き、その結果を携えて、最終目的のデブラ・ウィンガーに迫ると言うルポルタージュのような映画です。

その中で語られている生々しいハリウッド女優達の言葉の中に、男優の仕事と比較した時に、彼女達が感じる或る限界が頻出します。それは、女優が演じられる役回りに大きな特徴がないことです。男優の方は、あくの強い犯罪者から聖職者、刑事からサラリーマン、職種や年齢、さらに性格やライフスタイルなど、各種の要因の組み合わせの数と同じだけ、役柄の多様性があり、それを如何にうまく演じ分けられるかによって、演技力の高さを容易に表現できると言うのです。それに対して、女優の演じる役には、個性があまりなく、性格にも男優ほどの大きなばらつきはありません。職種も設定上は色々あっても、基本は仕事の有無で語られるのみです。または、子供の有無、既婚・未婚の別など、どちらかと言うと、二元論で識別されるような特長ばかりです。

女優達の口ぶりの中には、さすがアメリカらしく、それが業界の性差別、または、映画の観客の“性差による社会的役割”に対する偏見である言う主張が含まれています。しかし、私は必ずしもそう思っていません。なぜなら、洋の東西を問わずこの手のことは存在するようであるからです。だとすると、女性とは、能力や性格などにおいて、男性ほどばらつきが出ないものであると想定できます。

現実に、採用などの現場で、各種能力試験などの結果においては、男性は一般に優劣で二極化する傾向があり、女性は一般に中央値に近く集まることが知られています。そのように考える時、原理上は、企業が雇い得る人材と言うのは「能力の物差し」上で三つのグループに分かれることになります。それは、(1)優秀な男性、(2)女性、(3)劣っている男性です。優秀な男性のグループは、当然ですが、大手企業や有名企業に能力的にも就職しやすく、また、本人もそれを希望していることが一般的でしょう。

とすると、残った二つのグループを数の上では圧倒的多数の中小零細企業が雇用することになります。この二つのグループを、以上の論法で単純に漠然とした“能力”と言う基準によって比較するなら、男女のどちらを雇うべきかは明白です。

さらに、同質性という観点から見ても、同じ結果に至ります。「大手企業と中小零細企業のどちらが、多様な人材を受入れやすいか」と問うと、「中小零細企業が質なんぞに拘っていては、人などはそうそう雇えない」ということで、「結果的に多様な人材を中小零細企業は受入れざるを得ず、問いの答えも中小零細企業であろう」と言われます。

確かに入口ではそうかもしれませんが、中小零細企業は組織が小さい分、同質ではない者を排除しやすくなっていますので、仮に入口でばらばらな者を受入れざるを得なくても、結果的には、良くも悪くも、似た者同士が組織に残留します。これは性別にあまり関係がありません。

逆に大手企業では、極端に合わないものがいても、仕事は既にある程度以上にマニュアル化・システム化されているので、濃密な人間関係をベースとする必要はありません。極論すれば、隣の課の社員の名前さえわからなくても、組織は動く状態に成っていると言えます。仮に、そのような組織内でも尚、困ったチャンが発生した場合も、転勤どころか、同じビル内の異動によってでさえ、充分に隔離が可能と言うことです。つまり、大手企業の方が、多様な人間を受入れる土壌ができていることになります。

そのように考える時、色々な軸でばらつきの少ない女性のほうが、原理的には中小零細企業に定着させやすいことになります。定着させやすいパターンが先に分かっているなら、募集から面接の段階で、同質性が高い中でもさらに一定パターンの人材をスクリーニングすることを想像すると、採用に於けるあたり外れを少なくできるのも原理上、女性に分があることになります。また、中小零細企業が特に時間をかけたくない職能教育(つまり、作業に使う技術の習得)も、一旦うまく行くパターンができれば、同質性の高い女性のほうが、その後、同じパターンの反復で教育しやすいことになります。

第二部 「きめ細かい観察と対応」についての論点

マズローによる欲求五段階説によるまでもなく、人間には集団帰属への欲求が、生存その他の原始的な欲求の次に存在しています。女性の場合は、それがまさに先の同質性と重なるので、女性同士のグループ化が進行して行くことになります。それは小中学校の女子生徒の行動などを見ても明白に観察できます。私の教える大学で見受けられる女子大生の行動も例外ではありません。

しかしながら、さらにもう一段高次元の欲求は、自己の尊厳や自己表現などにまつわるものになり、先の同質化・集団帰属の欲求と原理上背反するものです。つまり、あまり周囲からかけ離れたくもなく、しかし、微妙に自分らしさも表現したいと言うジレンマと捉えることができます。男性に比べ、同質性の高い女性のほうがこのジレンマが深刻になることは論を待ちません。

このジレンマの解決方法は基本的に一つしかありません。それは言わば、「総論賛成・各論反対」のような態度です。ファッションがまさにその事例ですが、年やシーズンごとに、色の流行があります。また、例えばスカート丈の長短にも流行があります。それに大きく違う格好をしている女性は少ないのですが、そこから先には「アレンジ」や「個性を表現するワンポイント」が常に存在します。その「アレンジ」や「個性の表現」が、度を越していないか、さらにその巧妙さはいかほどかを互いにチェックしあうのが、子供の頃から長きに渡って仕込まれた女性の行動特性といえるでしょう。メイク・ヘアースタイルから服装から持ち物まで、一般に男性は考えも及ばないような、「同質性」と「個別性」のバランスをとり、女性同士の見えない集団への帰属“信号”を互いに発信し受信しあうのが女性の行動原理といえます。

このような“社会的訓練”を女性は子供時代から継続的に受けている訳ですので、細かな“信号”の送受信に長けていることになります。それは、端的に言ってしまうと、人間観察力であり、きめ細かな配慮を行なう力ということになるでしょう。

中小零細企業の戦略の基本は独自化と高付加価値化です。これは、一般的には、お客様に対しても、社員に対しても、「人の質」と言う観点で勝負することを意味します。人を経営資源と捉える時、残念ながら、この経営資源には取扱説明書もなければ、スイッチやダイヤルもなく、定型的作業によるメンテナンスも利きません。その時の体調や気分によって、大きくアウトプットがばらつくのが人です。お客様のほうは、まさに人間そのものであり、気分によってコロコロ判断が変わり、一貫性もヘッタクレもないのが現実でしょう。

そのように“読めない”お客様や社員を経営の中に取り込んでいくとき、心憎い演出やきめ細かな配慮や、言葉尻に滲むニーズの捕捉などが、先の独自化や高付加価値化を支える主要な要素であるのは間違いありません。そして、それに必要な力というのは、まさに、人間観察力であり、きめ細かな配慮を行なう力ということになります。ですので、あくまでも相関関係が充分にあると言う程度ではあるものの、中小零細企業の独自化や高付加価値化の実現には、女性の基本的能力の活用が効果を出しやすいとはいえることでしょう。

第三部 感性的判断・短期的判断の論点

私が勤めていた日本アグフア・ゲバルト株式会社はドイツのフィルム製造会社である、アグフア・ゲバルト社の日本法人です。アグフア・ゲバルトは、写真用フィルムのシェアは世界では第三位で、富士、コダックに次ぐ大手でしたが、日本国内でのシェアは私が入社当時たったの0.5%程で、ヨドバシやビックカメラなどの量販店と一部の愛好家的店主が経営する写真店・DP店に置かれているのみでした。

その日本アグフア・ゲバルトに入社した私は、写真用フィルムの販売計画を立て、販売促進策を考え実行して行くのが仕事の、数少ないマーケティング担当者の一人となりました。写真製品関連の部署の人員はたった30名ほど。そのうち、マーケティング担当は私も含めて二人でした。

マーケティング担当者の仕事には、色々な内容が含まれますが、その中でも、販促物の購入が一番長い時間を要する仕事です。それは即ち、フィルムの販促に必要な、店頭での陳列什器や、各種のノベルティ、さらに、デモンストレーション販売を行なう若い女性の手配と実績集計、さらにポスターや抽選くじ、ロゴ入りジャンパーやステッカーなど各種の販売に伴い必要になる物品サービスを手配しておく仕事です。さらに、さすがにローカルしか経験したことがありませんが、テレビのCMや雑誌の広告、雑誌でのプレゼント企画や写真コンクールや写真撮影会など、広告やイベントの業務も含まれます。

このような予算は大手企業のマーケティング部署ですと、億単位になっており、通常は大手の広告代理店と言われるところが、一手に引き受けて、それを各種の専門分野を持つ下請け会社に細分化して委託することとなります。しかしながら、当時の私が持っている予算は、(売上が低いのですから当然なのですが)僅か3000万円に満たない金額で、それを、如何に効率的に、効果的な販売促進策に投じるかに日々頭を悩ませることとなっていました。

しかし、世の中の方は(こちらの売名戦略もあって)「世界第三位のフィルムメーカーアグフア。この春から首都圏主要量販店で販促攻勢!」などと日経新聞に書かれます。そうすると、一気に、ジャンパーを制作している会社から、スピードくじを印刷している会社、ノベルティなどのギフトをズラリと持っているデパートの外商部門、デモンストレーション販売の女性を手配する会社などなど、ありとあらゆる所から、売込みの電話がかかってきます。

そして、その幾つかの会社と会うことにすると、待ってましたとばかりに、先方の営業マンが押しかけてきますが、当時の私のお寒い予算状況に皆一様に驚くことになります。打合せでは、色々提案をして来ます。内容は大抵、「陳列什器を以前富士さんに納品したことがありまして、その時はかなりお安くできました。ロット10000台で6000円です」などと言う話です。しかし、この例で行くと、当時のアグフアのフィルム扱い店は全国でも500店舗程度、仮に三台ずつ作っても1500台でもコトが足ります。そこで、「1500台で10000円を切る単価にするような仕様を考えて提案して欲しい」と言うと、皆再び驚き、頭を抱えて去ります。

問題はこのような頭を抱えた人々がナシのつぶてになってしまうのか、なんにせよ、商売にしようと執拗に挑んでくるかという点です。この辺の経緯は、私の営業マン評価の基準をまとめた二枚組CD『市川正人の 知ってて当然 うまく行く営業の超基本発想』にまとめてありますが、結論から言うと、最初に電話をかけてきた数のうち、0.5%程度しか、後日、継続して取引をする関係になり得ません。

しかし、この章での論点は女性の特性に関してです。営業担当者が淘汰されるメカニズム自体は論点ではありません。実は、最初に電話を掛けてくる段階での相手の性別は9割以上が男性です。それに対して、結果的に継続した取引になる会社の営業担当者の半分は女性です。これは何を意味するでしょうか。

当時のアグフア社に来社して、私の話を聞いた営業担当者は、多分にがっかりしている筈です。それは、
㈰「意外に有名企業ではない」
㈪「大きな商売がない」
㈫「担当者が厳しくサービス品質をチェックしそう」
※私は値切るのは嫌いでしたので、高く見積もってきた所には、例えば、短納期、クレームへの対応などの面で相応のサービスを要求することにしておりました。
㈬「時間がかかる案件になりそう」
㈭「頭を使わないと、既製品をそのまま販売して何とかなりそうにない」
㈮「おまけに、担当者がゴルフや酒席が好きではないので、決着をつけにくい」
などの思いが頭をよぎるということでしょう。

このようなことを上司に報告して、普通に考えれば良い顔をされる筈がありません。このような営業の仕事ですと、売上額はある程度給与などにも連動していることでしょう。また、売込みに来る所には、100人単位以上の社員を抱える企業もありましたので、何なりかの昇進・昇格などを意識して、リスクの高い客を避けると言うこともあるかと思います。

とすると、なぜ、このような判断が女性営業担当者には成立し難く、結果的に女性営業担当者との取引が増えていくのかが気になります。まず、彼女達の判断基準ですが、一般に女性の判断は合理性よりも感覚的判断が優先されると言います。

合理的に見たら、全くの屑クライアントの会社でした。しかし、少なくとも、私は、他社の見積も(互いに)オープンにしますし、何が不満なのか、納期はいつなのか、予算は幾らであるのかは明確にして、公平に対応するようにしておりましたので、分かりやすいクライアントであったのは確かであると思いますし、その点が取引に値すると考えられたと言うコトはあるでしょう。付け加えると、新聞に載っていた会社とは言え、無名の企業であることを女性営業担当者の場合は全く気にしていないようでした。企業を組織全体で見ずに、眼前の担当者から評価しがちであることも私が感じた女性担当者の特徴です。

また、私は「話の通じやすさ」を選択の基準の一つとして重視しておりました。前回の発注内容や条件、さらに、なぜそのような判断をしたかを理解して、どんどんこちらに対する知識を積み重ねてくれると、不要な説明の手間が省けます。この基準を重視すると、相見積などの価格のみの発注が少なくなります。それは取りも直さず、「よく理解すれば、競合他社が割込んで来ない客先」と言うことです。それを「面倒臭い客先」と感じるか、「独占しやすい魅力的な客先」と感じるかも、分かれる所でしょう。無論、男性営業担当者に前者の判断が多く、女性営業担当者に後者の判断が多かったのは言うまでもありません。これは、前項の優れた観察力と言う女性の特長を活かせる客先であったという解釈も成り立ちます。

さらに、もう一点、考えるべき所があります。それは、女性担当者はこのような屑クライアントを持ってなぜ、自社に平然といられるかという点です。なぜ、会社の利益や方針と合致しない客先を取って来られるのかと言うことを論じなくてはなりません。これは、感性的判断と並んで、短期的価値判断の為せる技だと私は思っています。つまり、語弊を恐れずに言うなら、女性には自分の所属している組織としての方針や、未来図、その中での自分のより良い立場と言った、長期的で体感しにくい動機付けは利き難いと言うことです。当然、屑クライアントを取らないことで長期的な動機付けのニンジンが与えられるメカニズムなら、そんなものにはお構いなしに、女性担当者は平気で屑クライアントを取って来てしまうことになります。

一般論ですが、女性社員を叱るのも誉めるのも、男性社員よりもすぐにするようにと奨める書籍は多々あります。女性の価値観、感性的な評価軸と言うのは、短期的に働くようで、動機付けもその場・その時のタイミングで行なわれ、内容も「将来こうなって行く」よりも、「今、これが得られて嬉しい」方が効果的です。これは単純に組織の理論に引きずられることがないという風にも理解できます。誉めるなら、すぐが良いでしょうし、どうせ誉めるなら、言葉よりも、モノや金銭を僅かでも渡すなどの方が、短期的に体感できる価値を優先する女性社員には効果がバツグンに出ることになります。極論ではありますが、ここ数ヶ月の自分が好評価であった場合、「来年から役職がつく」よりも、「来年から昇給」の方が嬉しく、それなら、もっと、「数ヶ月の残業代や手当が増える」方が嬉しいという論理と考えられます。
※これは先述の大卒社員の未来指向と或る面において矛盾する傾向と考えられます。

ですので、先の例で行くと、もし、私が上司であって、女性担当者に屑クライアントを取って越させないように思うなら、会社としてのそのような受注のデメリットを説くのはそこそこにして、さっさと何らかの即物的なペナルティを屑クライアント受注に対して設けることとします。

例えば、ほぼ100%の出来高給の保険外交員の女性などは、業績の危うい会社に肩入れすることはありません。冷徹にそのような企業との取引を回避・中断する筈です。それは、彼女達が冷徹な判断力を評価されて採用されたと言うよりも、そして、そのように育成されたという面よりも、間違いなく、自分に100%収入として跳ね返って来る出来高給による要素が大きいものと考えられます。

以上のように見て参りますと、女性の感覚的判断や短期的判断とは何かが見えてきます。それは顧客対応でも、社内における動機付けにおいても、基本構造は同じ筈です。

第四部 「オンナは得である」と言うビジネスの局面について

再び、私の体験談で説明を始めたいと思います。私が先の日本アグフア・ゲバルト社から転職して『商工にっぽん』を発行する日本商工振興会(以下、振興会)に勤めていた頃、私は北海道に既に在住していましたが、自分が担当する仕事以外で、他の担当者の打ち合わせを補助するために上京することがたまにありました。「たまにあった」のは、普段、私が頻繁に上京することが多いから、他の担当者のためだけにわざわざ上京することが少なかったからに過ぎず、自分本来の仕事でたまさか上京している時に、他の担当者の打ち合わせ補助をしていることも多々ありました。この「打ち合わせ補助作業」は打合せの相手が外部の人間で特定の種類の場合に発生します。その相手とは女性営業担当者や女性コンサルタントです。この役割をこなす際の私は「女性担当」と呼ばれていました。

振興会は、もともと、『商工にっぽん』を発行することのみによって当時既に三十年経営を存続してきた会社でした。北海道に本社を置き、同じ地元大手印刷会社で刷られた同じ本を、定期購読者に通販で会うことなく売っていたと言えるでしょう。当然ですが、印刷会社にとっては長年の重要取引先ですので、男性の幹部が営業担当として通い詰めてきます。企業取材に行く先にも、少数ではあるものの営業が売り込みに行く先にも、一般的に典型的な中小零細企業の男性経営者がドンと控えています。さらに、原稿作成や写真撮影を依頼する外注先であるライターやカメラマンも伝統的に男性で占められてきて、出版社にとって製造部門である編集部員も、営業部員も全員男性です。仕事の流れの上に登場する女性は自社の女性事務社員の数人だけでした。

この中で、繁忙期などになると、どうしても、いつものメンツでは足りなくなって、女性が登場し得るポジションがあります。それは、外注先のライターとカメラマンです。しかし、私から見ても、女性のライターとカメラマンには一般的傾向として大きな問題がありました。これらの人々の多くは、大きく二種類の当時の振興会としては「使えない人」だったからです。

種類の一つは、言わば「デキル人」なのですが、一般的には、仕事は見事なのですが、“哲学が入っている”ことが多く、自分の美学や正義観によって仕事をしていて、それ以外の価値観を許容できない人々です。それは、例えば中小企業の現実を取材するのが当り前の『商工にっぽん』の取材において、「残業と言うのは週40時間と法律で決まっているのですから、それが破られていることが当り前と言うような主張を記事にするのは如何なものでしょうか」のようなことになるなどして、こちらの規定方針にしたがって受注作業をこなすことができない人々です。これは、前述の感覚的判断に起因する性向と捉えることもできます。

もう一つの種類は、ライターやカメラマンではあるものの、その得意分野が限定されていて、それ以外のことを対象とする時に、それが、文章であれ、写真であれ、何が良い作品であるのかに想像を巡らせることがデキない人々です。例えば、これも偏見かもしれませんが、女性的なテーマを得意分野とすることが多く、例えば、女性の趣味の問題や、家事、仕事観や結婚観などがそれにあたります。無論、男性でも経営以外の得意分野を持つ人々はいます。しかしながら、男女に関わらず、得意分野の違う人々にでも、繁忙期に仕事を頼まなくてはならなくなった時、そこそここちらの要求する条件で仕事をこなせる確率は、男女で見るなら、圧倒的に男性が高かったのです。

この両者は、「使えない人」であることに変わりなく、その理由は、基本的には理屈による説明が通じないことと考えられます。前述の通り、感覚的判断、また、その結果の積み重ねによる価値観に支配されやすい女性ならではの弱点と考えることができます。

しかし、繁忙期の頼み先にこのような人々が候補にあがるコトは少なくなく、また、自社の編集者でさえ、募集すると、過半数が女性で、ほぼ似たような性向の人々が散見されます。このような人々を忌避することができず、発注してしまった場合、幾ら打ち合わせで納得しているように見えても、締め切りギリギリに納品されてきた作品は、彼らの世界観に従っていることが多く、結果的には使えないものになります。

それが相手が男性の場合、「なんでも良いから、締切りまでにやりなおして間に合わせろ!」と怒鳴って電話を切れば良いところを、先方が女性で苦しげな表情や涙目でも見せようものなら、つい「じゃあ、しょうがないね」と言ってしまうというのが、また問題であると、長い出版経験の中で、認識されていました。こうして、チャレンジすることなく、リスク回避を優先して、「極力女性を出版のプロセスに介在させない」と言う暗黙の了解が成立しました。これで、価値観を主張する女性との仕事の場面は起きないこととなり、分相応の仕事をわきまえている自社女性事務員がいるのみとなりました。

この体制が崩壊してしまったのは、新規事業に打って出ることにした時です。新規事業は読者企業に対してカセットテープやビデオテープ、集合型のセミナーや出張型の研修を販売することです。そのような事業の推進には多く外部の手を借りねばならなくなります。誌面に登場するコンサルタントは高価なアドバイスをするのが仕事であって、出張型の研修講師などは人当たりの良く、確実に研修を進めてくれる低単価の“肉体労働”者が求められます。募集すると、過半数が女性です。それも、研修実施においてはプロです。

読者企業に月に1回の『商工にっぽん』で案内するだけではタイムリーにセミナーなどの集客ができず、ファクスでDMを送ることとして、外部のシステムを使うことにしました。リクルート社にお願いしましたが、そこの営業担当者もやり手の女性です。お客さんの管理やその他にPCを導入することとなりました。その営業担当者もチャキチャキと自分の考えを述べる女性でした。

有名コンサルタントに単に取材だけではなく、100人規模の経営者を招いて講演をして貰うことも増えました。そうすると、講演の日程のみならず、料金交渉も、内容の吟味・調整を行うのも、先生のアシスタントなどの肩書きのやり手の女性です。さらに、講演の会場になるホテルなどで、会場を仕切り、飲み物のタイミングや照明の調整まで、チャッチャと片付けていくのまで女性担当者でした。こうして、振興会は新規事業に打って出てしまった結果、“判断や価値観を主張する女性”と対峙し、自社の仕事を進める必要に迫られたのです。

これらの担当者に、悲しい顔や辛い顔をされるたびに、値切ることもできず、やりたいこともできず、間に合わせることもできず、主張することも怒鳴ることもできないのでは、商売が成り立ちません。そこで、当時の私が「女性担当」となって、アグフア・ゲバルトでの女性営業担当者との打合せの経験をそのまま活かすこととなったのでした。

「市川、おまえ、この前、あの人と飲み会に誘われたんだってな。そう言うところに行くと丸め込まれるだろ。相手は女だぞ。一対一で酒なんか飲んでたら、変なことになりそうにならないか」などとよく言われました。

「でも、営業が接待するのは、相手の担当者の本音や価値観を知るためにも重要ですから、まあ、二軒三軒行って高額にでもならない限り構わないでしょ。その時に、こっちは、どう言う仕事の進め方は気に食わないかとか、上司がこんな性格だから、提案書はこんな風なのが通り易いとか教えれば良い訳ですよ。そう言うことは、定時の打ち合わせではなかなかはっきり言えませんからね。大体にして、もう大人なんですから、もし、本当に変な気になったとして合意の上なら何か問題があるんですか。それで、会社の利益を損ねる判断をしなければ良いだけのことですよね。」と言うのが典型的な私の回答です。

私の回答は現実的模範回答であると思います。しかしながら、敵を作りにくく、悪条件を提示され難い女性担当者の立場と言うのは間違いなく企業によって活用されています。それが、営業などでの交渉事などで発揮されているケースはまま見受けられますし、現実に組織的な判断、つまり、稟議や根回しを多く必要としない分野では、対個人の営業では当然ですが、法人営業でさえ女性営業担当者の比率が高いように私は感じます。

単に客先企業にズカズカ入りこむ場面を想定しただけでも、ヤクルト販売員や、鉢植えのメンテナンス、保険勧誘員など、圧倒的に女性が多いことに気づきます。これはそのような企業がたまさか多い結果そう見えるのではなく、顧客への入り込み易さや交渉での有利な展開などを期待して、そのようにしている企業が多くなっていると解釈すべきです。さらに派遣会社や広告代理店の営業担当者などの職種もこれに続きます。

当然ですが、先方が以前の振興会のように女性との打合せに慣れていない会社であれば、その効果は絶大であろうことが想像されます。そして、そのような企業は世の中にまだ掃いて捨てる程存在するように私には思えます。

第五部 女性社員の離職の問題

「女性社員はすぐ辞めるから採用しない」と言う意見を耳にします。その根拠は言わずと知れた、結婚・出産などの理由による退職です。私は必ずしもそうではないのではないかと思っております。

人材紹介事業をやっていて、その門を叩くのは、無論、有職者の性別構成から考えて、無理からぬ所かもしれませんが、印象としては、男性が圧倒的多数です。また、持参して来る職務経歴に見る転職回数なども、むしろ男性の方が平均値では多いようにさえ感じます。

女性の退職の主な理由が世に言うように、結婚や出産であるなら、人材紹介の現場で見る男性の転職は、「給料が下がったから、家計が成り立たない」や、「部署が変更になって、慣れない仕事が嫌でしょうがない」、「会社が買収されて、これ以上、出世の見込みがないから」など、社内の環境的要因が非常に多いように感じます。

最初に挙げた理由のように、生計を支える立場にあることの多い男性ならでは理由も多いですが、そうではなく、数年単位で会社に勤めていれば、どこかで起きても不思議ではないように思えるものも多々あります。これは、先述したように男性社員の場合、長期的な組織の未来像などに基づいた動機付けが為されているケースが多いので、逆にそのような未来の可能性は簡単に傷つき易いという風に考えることができます。それに対して、女性の方は、短期的・感性的な判断がベースで、動機付けもそのような主旨で行なわれていると、動機付けが損なわれ難いのは容易に想定できます。

現実問題として、短大卒・大卒で20〜22歳で働く女性の過半数が、一度目の退職までに10年以上働くと言う労働系の研究所の調査結果もあります。そのように考える時、女性の方が、結婚・出産の以外の理由で比較するなら、辞め難いと言うことも十分に考えられます。そして、今時、出産はともかく、結婚だけで退職する女性が多いとは到底思えません。皮肉なことですが、少子化が社会問題化すると言うことは、或る意味で結婚しても働いている女性の割合の多さを傍証するものとさえ考えられます。

さて、出産にあたって退職する女性の戻り場所はどのようになっているでしょうか。大手企業では、出産休暇だの育児休暇だのの制度を整備しつつある所が増えております。しかしながら、半年単位・1年単位の休暇の後に、仮に復職したとして、同職場、同職務内容、同待遇、同給与額を完全に保証するのは企業側にも大きな負担で、現実的に考えると実行は非常に困難でしょう。また、女性のほうにとっても、以前の職能や人脈は活かしたくても、いきなり、残業なども以前同様に戻ることには困難が伴いがちと考えられます。
大手企業は、組織が大きく、職場や職務内容を変更すると、それだけで、結果的に見知らぬ人々に囲まれて働くようなことが簡単に起きてしまいます。これでは女性にとって、元の企業に復職する意味が感じられないことも多いでしょう。

これに対して、中小零細企業では、もともと、部署が多く分かれている訳でもありませんし、仮に事務職であっても、或る程度“多能工化”が図られていることは想像に固くありません。また、待遇も年齢や勤続年数などをベースに、比較的単純な分類しかされていないことが多いと思われます。とすると、出産後に復職した女性にとって、抵抗なく、限りなくもとの状態に近い仕事を元の職場で元の仲間に囲まれて行なう環境は、中小零細企業においてこそ実現しやすいと考えられます。

また、例えば、パートや派遣、アルバイト、さらに在宅勤務など、或る意味、節操無く柔軟に取り入れ、できる者、頑張る者、貢献する者には機会を与えるのは、むしろ、社長の判断一つで決裁できる中小零細企業の方であるように思われます。その意味で、ここでもまた、女性社員の活用はむしろ中小零細企業が目指すべきことと考えられるのです。

以上

【参考文献】
●『大学でいかに学ぶか』 増田四郎著 講談社
●『学生時代に何を学ぶべきか』 講談社編
●『採用の超プロが教える できる人できない人』 安田佳生著 サンマーク出版
●『オンナを味方にして仕事をする本』 後藤芳徳著 成甲書房
●『男時間では生きられない』 本岡典子著 情報センター出版局
●『オニババ化する女たち』 三砂ちづる著 光文社新書
●『デブラ・ウィンガーを探して』 ロザンナ・アークエット編著 河出書房新社