中小零細企業における人材育成の方針
第1部「私の人材育成の実体験」
私は何屋かと尋ねられることが頻繁にあり、そのたびに、「業務系対人コミュニケーション企画請負業」と答えております。これは、簡単に申しますと、経営者の価値観や考えを会社に関係する人々に伝える方法を考える仕事ということです。では、その人々とはどのような人かと申しますと、お客様であったり、採用予定者であったり、稀に近隣住民などと言うケースもあります。しかし、やはり、お引き受けする仕事の多くは、「組織の部分」である社員を対象とするものです。そして、お客様のご依頼内容に応じて、勉強会の形式をとったり、講義の形をとったり、プロジェクトチームの形をとったり、色々な方法を考えます。
そのように、そのお客様に良かれと思って企画を行う訳ですが、あくまでも請負業者の立場ですので、お客様の意向を鑑みて、「私だったらこうするのに」と言うやり方を徹底して実行に移すことはできません。『商工にっぽん』を発行する株式会社日本商工振興会で、社員研修や後継者育成など数々の研修企画を生み出しましたが、それは、どこまで行っても、私にとってはお客様の顔を見ながら作った商品でしかありません。また、転職回数が多く、その転々とした職場で、実務担当者として働いていただけの私は、たった一人の例外を除いて、部下を持ったことがありませんでした。ですので、独立起業が余儀ない立場になることが見えかけていた時に、その部下を持つこととなり、多分最初で最後の部下であろうから、「さすが市川のやることは違う」と、人に誇れる様に、如何に教育するかを徹底的に考え抜き、実践することとしました。
第1部
第1章「私の人材育成経験」
その部下、Y君を担当することとなった時に、私は人材紹介を行う会社の実務担当者でした。株式会社日本商工振興会で培った、中小零細企業向けの人材紹介のやり方を評価されて入ったZ社と言う会社の人材紹介部門に、契約社員として在籍していました。その人材会社は基本的に拡大基調にあり、有能な人材を必要としていたので、私も、知り合う同業他社などから何人か幹部をスカウトして、その会社に転職させていました。彼は、そんな幹部のスカウトに伴って、その幹部の部下だった数人が一緒に転職してきた内の一人です。
有名W大学法学部の出身で、所謂“ジアタマ”の良い、しかし、大学時代はサッカーに明け暮れていたと言う男です。私が彼と知り合った時に、私は30代後半。彼は20代後半でした。彼は、大学卒業後、司法書士を目指し、受験勉強の傍ら、司法書士事務所で働きますが、2回の受験に失敗して断念しました。縁あった学習塾に講師として入り、そこが日系企業社員の子女への教育事業を海外で立ち上げるにあたって、マレーシアに行くこととなりました。そこで、彼は日本人相手の塾の先生を続けて3年を過ごしたとのことです。そして、基本的には、日本社会における浦島太郎にならないために、帰国し、職探しを始めました。塾で人の世話をすること、人の教育に携わることに関心を持つことができた彼は、帰国して人材派遣会社の社員となります。常時社員募集をしているその会社は、業界でも悪評を聞く会社でした。しかしながら、会社員経験が全くない彼は、理不尽な仕事も、こういうものかと、判断基準なくこなしていたと言います。その職場から彼は転職して来て私の部下になったことになります。
教育と言っても、子供相手の商売。派遣会社と言っても、会社の体を成さない、半端な組織での経験。まして、日本で会社員として働いたことがない、ある種の非常識さ。色々な意味で、Y君の教育には困難が想定されました。まして、仕事は人材紹介です。人を売り物として見極め、かたや一方では、会社の社長からお話を伺い、具体的にどのような人が必要なのかを、その会社を体感して判断しなくてはなりません。人の経歴を商品の仕様として見極めると言うことは、例えば、人材の職務経歴書に、ある商社で30歳で課長になった場合、それは優秀であるのか、愚鈍であるのかが、相手に聞くことなく判断できなければなりません。また、同業界のA社からB社への転職をした人を見たら、転職前後の仕事の内容や給与の情報から、その人が良い人材なのかどうかを判断しなくてはなりません。
また、お客様企業の社長から伺う人材像の確定も一筋縄では行きません。「財務経理の課長クラスが欲しい」と仮に言われても、卸の会社では、倉庫の商品在庫管理ぐらいまでが範疇に入っていることもありますし、店頭公開や相続を控えた企業では、そのような経験のある人材が望ましいのは言うまでもありません。製造業なら、当然、原価計算や生産性管理ぐらいは分かっていなくては話になりません。場合によっては前職で使っていた経理ソフトの習熟度もかなり問題になります。また、会社の雰囲気や社長の性格まで計算に入れますと、何を優先の条件としてどのような人物像が相応しいと判断するのかは自分で物差し作りから始めることとなります。当り前ですが、先方の社長はこのようなことを全て条件として揃えて見せてくれる訳ではありません。
人材紹介の同業他社からは、「僕達は、会社で色々な経験をしてから独立してこの商売を始める訳で、30にもなっていないような若い人が始める商売ではないよ。人材派遣だったら、まだしも」などと、あからさまに、私の挑戦を否定する人々も多数いました。何度そのような「ありがたい忠告」を頂いたか分かりません。それでも、私は最初で最後の部下育成の機会を徹底的に活かすことと決意していました。
入社後、当時の私の上司による1~2日の座学研修(オフJT)の後、私は彼を引きうけました。私は一番最初に、時間を取り、
①人材紹介で若手を育てるのは狂気の沙汰であること、
②職場と私の立場から、多分、長く教えてはいられないこと、
③人材紹介は、転職する人材と企業に心底喜ばれる仕事である反面、誤るとその人材の人生を狂わせる恐ろしい仕事であること、
④彼の(実質的な)社会人人生のスタートはかなり出遅れており、回復には非常な努力が必要であること、
などをじっくり話して聞かせました。そして、半年を目安に、私の持てるものを徹底的に教えたい旨を告げ、納得できるか否かを問いました。答えはイエスでした。
本当に教えるべきことは山のようにありました。
①Z社の企業組織とそのお客様企業群である小売業各社の業様、
②一般的な業務上の知識(単に所定の書式の使い方や経費の精算方法などの問題のみならず、インターネット上の登録者接触の仕組みなども理解も含まれます)、
③会社全般の組織構造とそこに存在する職種と職掌の概要、
④人材の経歴の評価基準とそのパターン、
⑤人材紹介も含めた企業の求人方法の選択肢、
⑥仕事の進め方(段取りとホウレンソウ)、
⑦会社における意思決定の発生の仕方(つまり、稟議・根回しのメカニズムとその活用法)、
⑧人材の募集・面接の具体的テクニック、
⑨企業ヒアリング、企業評価の具体的テクニック、
大きく分けると、このようなことになります。
このうち、①と②は自社のことで、知識として学ぶにも、終わりの見える内容ですが、それ以外は、知るべきことが膨大な量であるか、知った所で実践・実体験を伴わなければ、あまり意味がないような分野です。これをどう教えようかと考えて抜いた結果、これらを逐一教えるのは、ほぼ放棄することとしました。その代わり、これらの学び方を教えることとしたのです。しかし、学び方を教えただけでは、本当に学ぶか否かは分かりませんし、本人が怠惰に過ごせば、半年はあっという間に過ぎて、会社としてはモトが取れません。よって、「学び方を教え、自分で学ぶことを強いる」こととしました。
また、色々考えてみて、すぐ結果が出たのは、スケジューリングをやってもムダと言うことです。カリキュラムのようなものを組んで、少しずつ教えることとしても、(非定型作業の組合せであるような)実務も並行して行う訳ですので、予定した教育が、実務遂行に当たって最大の効果を産む保証はどこにもありません。そこで、教育内容を決めるのではなく、どの実務をさせるかを先に決め、その遂行の最初の段階に最低限必要なことを、事前に解説することとしてみました。しかし、その程度の知識ではすぐに躓きます。躓いた所で、その原因や改善策、そして、それにあたって学ぶべきことを、これまた徹底的に教えこみます。そして学ぶべきことと調べる方法まで教えますので、教えてもらった側は、それを調べて理解することが宿題となります。
具体的には、1日1~2時間はサシで打合せを行い、指示とその実行に必須の解説を積み重ねました。また、当時私はZ社に週3日行って、宿泊は千歳船橋の小さなマンションの一室でした。その3日間の晩はほぼ全て、彼と遅い晩飯を食べ、食べながらその日1日の気づいたことを指摘したり、補足説明しました。日常の一応ルーチンと呼べるような仕事をおっかなびっくり行える程度には、彼の資質のお蔭もあって、1ヵ月を待たずに至りました。それは、つまり、やってもらうべき仕事の「事前解説」を一通り終えたに過ぎません。一本指でおそるおそるレジを打つ店員や、口に突っ込んだ手を「おっと」とか言って引込める歯科研修医のような存在ほど、お客様にとって迷惑なものはありませんが、やっと、この段階に至ったと言うことです。ここまでは、理屈抜きに言った通りにやらせるのみです。
そして、ここからが考えさせる段階です。今まで溜めたことをベースに一気に実務能力を引き上げることとなります。やらせるのみだった仕事の意義や背景を理解させ、それを前提に、習熟や改善を図らせることとなります。例えば、ある人材の評価を具体的にどのようにしたか、そして結果は何であったのかを報告させます。
彼の説明を一頻り聞いて、
①彼の考えの根拠を深く尋ね、さらに、
②他の考え方はできないかと揺さぶります。
例えば、人材の評価は結局主観によるしかないのは分かっていても、実際に存在する各種の適性テストの名前やパンフレットなどを提示して、彼の主観による人材評価自体を根底から見直す様に指示します。
指示には当然ながら、デッドラインがあります。その期限までにできるようにするにはいつ何をやれば良いのかも、その場で言わせます。言ったら、こちらも覚えておいて、後はひたすらやらせます。そして、その結果を聞きます。私から見て、及第点を与えられる充実度の回答を用意してきたら、私なりの回答を提示します。およそ、会社で起きることに正解などありませんから、先方の「ベスト」が私から見て及第点以上なら、礼儀として私の「ベスト」も披露するだけのことです。こうした「自分の仕事の検証」のような宿題は、通常、最大でもその締切りまで数日しかなく、私が用意してきた本を読んで理解するなどの「工程」を必要とするものもありました。本を読み、その感想を言い合うような機会はできるだけ多く作りました。
これらの所謂「教育」と共に、彼には私のスケジュール管理もしてもらっていました。スケジュールのみならず、お客様の住所連絡先などの管理も行ってもらい、更に、私の日報も(口頭で伝えて)書いてもらっていました。ですので、彼に「明日、俺って、どこに行って何をするんだっけ?」とか、「そうかぁ、あのお客さんは細かいことに拘るタイプだから資料が要るね。どんなのが要ると思う」とか、容赦なく尋ねました。答えられなければ、「仕事やる気ないの?」と聞くだけです。また、「そうかぁ、なるほどね、そう言う資料ね。凄い凄い、分かってるじゃん。じゃあ、その資料用意して。持ってくのがぶっつけ本番だとまずいから、1日前がデッドラインね」など、関連作業も容赦なくやらせました。これが、仕事をどう管理し、どう段取りをするか、を考えさせる実体験型ケーススタディです。
彼は常時、このような宿題を5本以上並行して抱えていた様に思います。当時の大宮市に住んでいた彼の平日の睡眠時間は4~5時間で、かなり辛かったと思います。しかし、仮にも、全体の限られた時間や彼の出遅れたキャリアなどをきちんと説明した上で、彼が納得していることとして、やっている訳ですので、アウトプットの質や納期に妥協は一切しない様に努めました。1度か2度、かなり辛いと彼が言って来たことがあります。しかし、「じゃあ、どうしたいか、対案を言ってよ。詰まる所、楽をしたいだけなんですってことじゃあないよね」と言うと、結局、抱えている課題の優先順位付けや手の抜き方を教える結果になりました。名著『できる社員はやり過ごす』なども読んでもらいました。
この段階あたりから、仕事の原理のようなものも認識する様に仕向けました。それは単純なことで、枕詞の様に「結局、この仕事って言うのは、お客さんの会社と、そこに入社する人材をハッピーにさせるものでしかないでしょ。だからぁ」などの様に言い、全ての業務上の判断が、この目的に帰着する様な認識を作るようにしました。これで、何かの課題にぶつかった時に、具体的な手法は違っても、解決の方針は私の考えとぶれない様になってきました。
動機付けと言う動機付けもあまりしていません。結局は社会人として自分が選んだ道だと言うことを認識させるのと、前述の様に、仕事の結果が誰かの役にきちんと立つものになり得ることを認識させることは執拗にしただけです。あとは、報告してもらって、その中味が私にも有用・有益な時は、「ありがとう」と言うことにしていました。それと、彼が自分で始めたことであろうと、私の指示であろうと、彼の手により成された成果は、「これは、彼がやったんですが、なかなか良いデキです」とお客様にも臆面もなく言うことにしていました。
逆に、彼のアウトプットがだめであった時は、なぜその評価が低く、受け容れ難いものであるのかを、(できるだけ間をおかず)しつこく説明したつもりです。しつこく説明すると、時間があっという間に経つので、職場で1日1~2時間と、ほぼ毎日晩飯は職場のあった茅場町の居酒屋で終電ギリギリまでと言う日々は、結局半年丸々続きました。
行き当たりバッタリの教育の結果、説明しなくてはいけないことが増え、こちらの予習が膨大になったことも多々あります。例えば、仕事の段取りを教えようとした時に、ふと考えてみると、自分がどうやってそれを身につけたのか分からないなど、困ることもありました。自分もたいした読まずに放り出した本を指定せざるを得なくて、慌てて読み返したことも1度ではありません。しかし、行き当たりバッタリに発生させてしまった論点を、きちんと責任もって学習のネタに変えられる限り、その行為は「教育」と呼べるものだと私は考えます。
このような半年が過ぎた時、Z社は、予想通り人材紹介事業を縮小する判断をし、Y君は人材紹介業界で有名な上位企業の東京支社長から直接スカウトを受け転職しました。一般的に優れた経営体質をもつ企業が少ない人材紹介業界において、彼は数少ないお客様企業から紹介で他のお客様との接点を作れる担当者となりました。また、人材紹介による採用はその企業内部でも伏せられていることが多いのに、お客様企業のスポーツイベントに招かれるなど、その後の彼は、私ができなかったことをドンドン実現して見せてくれます。そして、転職後4年目にして(人数の少ない組織とは言え)役員となりました。彼のその後の実績・職歴が、「30前の若造に人材紹介ができるようにするなんて言うのは…」と言う前提を、私のぶっつけ本番の「教育」で打破することのできた証だと私は思っています。
「今私が教わったようなことを、市川さんはいつどんな仕事をしていて身に付けたのですか。それは自分で考えついたのですか。それは何歳ぐらいのことですか」。彼がよく尋ねた質問ですが、この質問の内容は、やはり、彼の資質の高さを示していると思わざるを得ません。ですので、彼の実績はその意味において、何の疑いもなく彼自身のものです。しかしながら、それを無理矢理にでも引きずり出すのが、企業であり、そこで働く人の、社会に対する責務ではないかと、最近思う機会が増えております。
第1部
第2章「私が受けた新入社員教育」
多分、私にとって最初で最後の部下育成の経験は以上述べた通りです。その実行にあたっては、後述するような基礎知識をベースに方法論を考えました。ただ、教科書で読む基礎知識はあくまで原理原則です。それをどう自分のケースに当てはめ、実行するかを考えるには、モデルケースが必要となります。
私の新入社員時代を振り返ると、あとあと感謝してもしきれないような人材育成を施してくれた係長との出遭いがありました。その話は、私のメールマガジンにも書き、読者の方々から多くの反響がありました。
当時昭和57年の電電公社では高卒も採用されており、私もその一員でしたが、なぜか高校は普通科なのに、局内施設保全と言う、簡単に言うと、電話局の中の機械をメンテナンスする職種につくことになりました。そして入社後待ち受けていたのは、半年に渡る機械内部の電気回路を理解する集合研修でした。その研修の科目の僅かな部分は、所謂マナー教育や会社の組織構成などの教育に当てられていました。
また、これとは別に、当時、全国で最大の組合組織であった全電通の新入組合員向け強化研修もありました。これは、(当時入社後すぐで有休休暇1日さえない新入社員を北海道全域から数百人集めて、その欠勤扱いになっている日数は組合費から給与相当額を補填すると言う)組合の大規模な研修で、温泉街のホテルに3日間も缶詰になって労働法やら組合関係の法律などを習うものです。
その後、配属の電話局で、(私の場合は余市電報電話局ですが、)会社持ちで自動車学校に毎日午前中は勤務扱いで通い、普免を取る生活が始まりました。そして、午後は通常の勤務と言うことになりましたが、数年ぶりの新入社員である私は、特に指導を受けるでもなく、毎日、お茶汲み、コピー焼き、運転手、荷物持ちに明け暮れていました。先述の係長に巡り会ったのはそんな時です。以下に私のメールマガジンの本文を転載します。
『経営コラム SOLID AS FAITH』 (2000年3月10日発行)
第10号 『雑用に勤しむ社員』
おい。コピー何部とった?俺は、5部だって言ったよな。オリジを入れて6部しかないぞ」「はい。だから、コピーを5部…」「馬鹿野郎。おまえの分はどうした。俺はおまえが読んでもいいと思って任したんだぞ。何で、自分もコピーとって読まないんだ。おまえは、自分の職場で何が起きてるのか知りたくないのか!」
高卒で勤めていた大手企業の職場で、係長は私を怒鳴りつけた。大手企業とは言っても、田舎の小さな事業所。たった16人の職場に6年ぶりに入った新卒社員の私は、基本的に「お茶汲み」、「コピー取り」ばかりやっていた。徒弟制度そのままの技術屋の職場で、この係長だけは、私に雑用を言いつけては、因縁をつけてきた。
「おい。山さんは何の書類書いてた?今、お茶置いてきたんだろう?なんで、そんなことが分かんないんだ」お茶をいれていて、こう怒鳴られたこともある。何をしても、一筋縄ではいかない質問が待っていた。私はこの係長が苦手だった。
入社後半年、機械保守の夜勤に入ることになった。日勤の社員が帰った後は自分一人の職場。機械相手に音楽などかけて仕事をしていると、帰ったはずの係長が半酩酊で戻ってくる。「おまえに宿題を出す。日勤に戻るまでに、先輩の机を全部開けて、中の図面やマニュアルの場所の一覧を作れ!それを覚えろ!いいか、テストするからな」
仕方なく、私は本来の仕事の傍ら夜通し職場の机を開け、引出しごとの書類の一覧を作った。作業は半年間続いて、日勤に戻った。「おい。今度やる工事の適任者は誰だ。言ってみろ!」「はい。川田さんだと思います。図面に書き込みが多かったです」「ふん、そうか。じゃ、川田君に任そう。おまえは荷物持ちをやれ」テストには辛うじて合格したようだ。程なく係長はどこかの職場に栄転し、その後音信は途絶えた。
「雑用ばかりやらされて、自分がこの職場で得るものも無ければ、尊敬できる者もいない」こんなことを言って、不況の中、入社したての職場を去る若者が激増しているという。私も、時たまそんな相談にのるが、今は感謝してもしきれない「親にも胸を張れるような」雑用を命じてくれた係長の話を、必ず聞かせることにしている。
第2部「中小零細企業での人材育成を考える」
第1部では、一人の部下を徹底的に育てた、私個人の“実践”を紹介致しました。その実践をどのように行うかの考慮はかなり綿密に行ったつもりです。そして、そのときの考えは、今の私の「中小零細企業における人材育成観」のようなものを形作りました。
そこで、第2部では、その人材育成観がどのような根拠や考え方に基づいて構築されたかを簡単に紹介したいと思います。
第2部
第1章「会社にとっての人を考える」
会社組織における人材育成を考える時に、それは経営の一環として、会社の時間なり、資金なり、人材を投じて行う業務である訳ですから、目的が明確である必要があると思います。「なぜ、会社は人材育成を行わねばならないのか」は、当り前過ぎて、普通あまり考えられることのない命題です。しかしながら、人材の育成を行わないことを前提とした会社も、(無論、少数派ではあるものの)間違いなく存在します。この命題は真剣に考えるに値すると、私は思っております。
このレポートでは最終的に中小零細企業における人材育成の方法を考えるつもりです。その、人材育成の具体的な方法・手法は、あくまでも手段です。何のために何をすべきか(=目的)が決まっていなくては、その良し悪しを評価できないのが道理です。よって、何の為に、企業は(取分け中小零細企業は)、人材を育成する必要があるのかを、決めておいてから、人材育成方法の評価をすることとします。
しかし、「何の為に企業は人材を育成しなくてはならないか」と言う問いも、簡単なものではありません。なぜなら、この疑問を解くためには、この人材というものに関してもう一つ考えねばならないからです。それは、「人材は企業と言う組織にとって、一体どのような意味を持つのか」と言うことです。
ビル・トッテン氏は、アメリカ流の経営の仕方を徹底的に批判することで有名な人です。私も『商工にっぽん』編集部員時代に取材でお会いしましたが、その論点は非常に明解で面白い方と感じました。
※参考文献1:
『アメリカ型社会は日本人を不幸にする 「実力主義」は日本に合わない』
ビル・トッテン著 大和書房
取材やセミナーでトッテン氏に接触のあった日本商工振興会の本間氏が、編集部を外れ、セミナーや人材紹介専門の新設部署、人材開発事業部に移籍した時、その真新しい名刺を持って、挨拶にトッテン氏を訪ねました。トッテン氏は本間氏の新たな名刺を一目見るや否や、怒り出し、叫んだそうです。「ホンマ!マダ、ワカリマセンカ。ヒトハ、キカイヤ、タテモノデハナイヨ。シゲンジャナインダヨ」と。
人材とは、人的資源の簡易な呼称と考えて良いでしょう。人材も人的資源もどちらの日本語も、英語の訳語は、「ヒューマン・リソース」です。では、リソースはどのような時に使われるかと言うと、まさに石油などの天然“資源”のように、企業が対価をもって調達し、消費して行くものを指します。トッテン氏が怒り出したのは、“人”を資源として扱う発想の「人材」と言う言葉が、彼が忌み嫌うアメリカ型経営の象徴的部分であったからでしょう。この発想に立つならば、「人材育成」とは、企業にとって、石油の精錬や、機械装置のメンテナンスやバージョンアップと言うことと同義と言うことになります。
経営論から企業を語る時、歴史的にそれは資本の運用の手段として捉えられてきました。だからこそ、そう言った経済構造が海外から江戸末期の日本に紹介された時に、それは「資本主義」と訳された訳です。つまるところ、金を莫大に溜めた人が更に金を増やす手段の体系化に他なりません。
これに対して、トッテン氏によれば、人は組織の一部であり、まさに構成員です。その構成員に消費・消耗されるのが、資源であり、人は資源には含まれません。その考え方から行くと、人材育成は会社組織の強化・改善・変革そのものであることになります。人を企業組織の中心に据え、人の心理・行動の集合体として企業組織を捉える考え方があります。トッテン氏も、疑いなくこちらのグループです。厳密には種々の説だの論だのがあるのでしょうが、この考え方を総称して人本主義と言います。
※参考文献2:
『人本主義企業 変わる経営変わらぬ原理』
伊丹 敬之 著 日経ビジネス人文庫
私は、ビル・トッテン氏のように、力の限り資本主義型(≒アメリカ型)経営を糾弾するつもりはありませんが、人の質がその企業の将来の可能性や事業成立の重要な条件となることなど当り前の、属人性の高い経営を行なう中小零細企業において、社員のみならず、少なくとも恒常的に働く人材は人本主義に基づいた「育成」が為されるべきであると思っています。
それは、中小零細企業の生き残り策の本質が、差別化をベースとしていることとも関連しています。差別化とは即ち、他社の模倣を捨て、独自の経営の道を歩むことに他なりません。であれば、その組織とイコールである社員も、その組織の独自の道を理解し、独自の道の邁進を支える存在ではなくてはならない筈です。そのときに、人を、入替え可能、使い捨て可能で、指示に従った行動しかしない機械装置のような資源と考えるには、それなりに無理があります。
無論、マニュアル化などの方策により、人材を入替え可能としても一定の成果を上げるような想定をすることは可能でしょう。しかし、中小零細企業の差別化が現場からの発想に根ざしたものであることを考えると、どうしても、現場に第一線にいる社員が、自ら考え、創意工夫を重ねるような働きをしなくては、際立った差別化ポイントが長期的に維持できるとは思えません。このような組織の力(、即ち、組織における人の力)を指して、「現場力」と呼ぶことがあるようです。
※参考文献3:
『平成社員道 上司が「鬼」とならねば部下は育たず』
染谷 和巳 著 プレジデント社
八章 『現場力= 「自分で考え、行動する」社員に』
こうして考えますと、先の「人は企業と言う組織にとって、一体どのような意味を持つ存在なのか」は、ほぼ決まりました。それは、人本主義に則り、中小零細企業版で行くと「組織の一部として、その差別化の経営方針を理解して主体的に行動できる存在」と言うことになります。ここで、人材とは、どのような存在であるのかを決められましたので、人材育成の目的は明確になってきます。
中小零細企業の“人”は主体的に行動できる組織の一部であるとの定義は、所謂「中小企業の5ナイ」に当てはめると、“人”の重要性を際立たせます。5ナイは、中小企業に欠けている、5つの経営資源(再び、アメリカ型経営的発想です。如何に、世の中の経営論がアメリカ型経営をベースに形成されているかが分かります)、ヒト、モノ、カネ、ギジュツ、ジョウホウを指しています。確かに大手に比べたら、欠けていることだらけです。しかしながら、この中でどれを優先して強化したいかと中小零細企業の経営者に尋ねると答えはほぼ100%一致しています。ヒトです。5つの“資源”の中で、ヒトだけが、他の要素の入手を可能にし、それを活用することができるからです。
無論、カネが沢山あって、求人広告を大量に打ち続ければ、良い人を集められる可能性は高まります。良いジョウホウを大量に吐き出し続ければ、やはり、良い人材を集められる可能性は高まります。しかしながら、それらを有効に使って結果を叩き出すのもやはり人であるのですから、ヒトだけが5つの経営資源の中の、高みに存在すると考えること、若しくは、トッテン氏の如く、最初から5ナイなどと言う発想が良くないと考え、ヒトを特別扱いすること。これらには合理性があります。
こう考えてきて、人材育成の目的も、その第1は、先の企業組織にとってのヒトの存在の意義を実現すること、つまり「組織の一部として、その差別化の経営方針を理解して主体的に行動できる存在を、組織内につくること」と言うことになります。では、目的はこれだけで良いのかということになりますが、どうもそうではありません。
資源ではないにしても、これらの“人”を(調達ではなく)採用し、(消費ではなく)利益を発生させるためには、そのコストを無駄にしない様にしなくてはなりません。中小零細企業にとって「まともな」採用活動と言うのは、時間・手間(これら2つも結局コストですが)・コストが膨大に掛かります。最悪の収支は、この発生したコストを回収する間もなく社員が辞めてしまう時に発生します。つまり、会社にとって“人”は資源ではないとは言え、それに投じたコストを回収できることは企業活動として考える時に絶対に満たされなくてはなりません。
その方法は2つの方策の組合せでしかありません。一つは、すぐ辞めそうな人(その傾向が僅かにでも見て取れる人)を絶対に入れないこと。そして、もう一つは、入れたらできるだけ辞めさせず戦力化すること(=現場力を向上させること)です。一般にこの2つの内、重要なのは最初の「入れさせない」方です。例えば、ドロドロの経営論を展開する現役社長、木子吉永氏などは、面接で今まで辞めていった社員の事例を一覧表にして時間をかけて説明し、辞めない人間を選び抜くことを幾つかの著書にまたがって強調しています。
※参考文献4:
『なぜ儲からないか 小さな会社の大きな勘違い』
木子 吉永 著 あさ出版
パート2-④ 『「社員がやめるムダ」を考えヨ』
ただ、本レポートでのテーマは、既に入社した社員をどう育成するかですので、「リクルーティング・マネジメント」などと呼ばれ、昨今、とみに注目されている、「辞めない人、そして、辞めさせる必要のない人を、見つけ出して雇用するプロセスの管理」には、これ以上言及しません。
そうすると、人材育成第2の目的が見えてきます。それは、「一旦入社して、現場力の向上が始まった“人”を定着させること」です。尚、この「入れたらできるだけ辞めさせない」と言う主旨は、能力(単なる技術だけの問題ではなく、やる気や姿勢の問題も含めた能力です)が著しく劣る社員を温存すべきことを説いている訳ではありません。あくまでも「現場力向上」のために社員を定着させる必要があると言うことです。
ここで第1部をまとめると、このようになります。
中小零細企業の組織における人は「「組織の一部として、その差別化の経営方針を理解して主体的に行動できる存在」であり、その「人材育成」と言う経営活動の目的は、「そのような存在を組織内に、効率良く発生させ、さらに定着させること」と言うことになります。これで、目的は明確になりましたので、では、どうやったら、この目的が果たせるのかを考えることになります。
第2部
第2章「人にとっての会社を考える」
前章では、人材育成の目的を、「会社にとっての人」の探求から考えてみましたが、その目的に言う「そう言った存在を発生させる」と言うプロセスは、草木が生えてくるように、今まで存在しなかったものが現れるということではありません。大抵の場合、既に頭数としては存在する社員を(現場力を持ち合わせた)戦力化すると言うことを指します。
かつて、中国大陸にあった清王朝は、当時の明治政府の人間に向かって、「台湾は化外の地」と言ったとのことです。ここで言う「化(け)」とは、文明的な人間に変化させられる可能性とでも言った所で、台湾をそのような可能性のない野蛮な土地であり、自国の領土と認めないと言う意味であったと言います。余談が過ぎましたが、つまり、「○○化」と言うのは、それが起きる対象に本質的な変化を起こすことです。通常、変化には抵抗や不安・不満が伴うのが当り前です。そして、社員の「戦力化」もその例外ではありません。
人間がやる気を持って、つまり、自ら進んで事を成すには2つの要素が揃っていることが望ましいと言われます。一つは「やることに合理的理由があること」であり、もう一つは「やることを自分も(何かの理由で)欲していること」です。このうち、一つ目の方は、戦力化が本当になれば、その人間の会社での評価も上がり、それが中長期的には給与などの待遇面に反映されることでしょうし、当り前ですが、当然その前提として、その人間が一部として存在する組織全体にとって、「戦力化」は喜ぶべきことであるのは自明です。問題は、「戦力化」も抵抗を伴う「○○化」であるのに、社員がそれを感覚的に欲するかと言うことです。それはつまり、「戦力化は、その人間の内からの抵抗を乗り越えるために、何らかの欲求と同方向に重ね合わせられるか」という問題に他なりません。
このような2つの要素が、人間の行動に必要であるのは、実は広く見られることで、例えば、高単価の商品の購入動機などを調査すると顕著に出るといいます。自家用車を買った父親に、なぜ特定の車種を選んだのかと問うと、大抵は、「家族全員で載ってもユッタリできるような座席配置」とか、パンフレットにあるような合理的な理由を並べます。しかしながら、実際にセールスマンとの商談の中で、購入を決断するのは、決して合理的な理由を提示されたからではありません。
よく、「人はなりたい自分にしか大金を払わない」と言いますが、結局、自分が父親として格好良く見えるとか、土日の子連れの外出が便利になるなどの、欲求を直接満たすようなセールスが購買の引き金を引くのです。乱暴にまとめるなら、人は感情で行動し、後から合理性を付加するのです。この辺の話は、神田昌典氏の提唱する感情マーケティングに色々と解説されています。
※参考文献5:
『 もっとあなたの会社が90日で儲かる!
感情マーケティングでお客をトリコにする 』
神田 昌典 著 フォレスト出版
この問題を考える時に、前章の「会社にとっての人」とは逆に、「人にとっての会社」を真面目に考えてみる必要がありそうです。人は会社でどのような欲求を満たそうとしているのかが分かり、会社の「たまさかそこに社員として存在する人間の現場力向上を図って、戦力化したい」と言う思惑と重ね合わせることができるなら、社員の現場力は向上するでしょう。そして、その欲求が満たされる限り、満たされる場を離れようとはしないでしょうから、当然定着も図られることになります。
諸説色々あることとは思いますが、一般に、「会社の思惑を実現するために、人が会社で満たしたい欲求を満たして行くこと」を動機付けと言います。動機付けには経営学にも古典的な考え方が幾つかあります。その中で、参考になりそうなもののサワリを紹介しつつ、「人は会社でどのような欲求を満たそうとするのか」、または、「人は会社でどのような欲求を満たし得るか」について考えて見たいと思います。
①マズローの欲求五段階説とアルダファのERG説
欲求に関する何かの記述を見ると、必ずと言って良い程、言及されるのがマズローの欲求五段階説です。それらは、
(1)食欲・性欲や睡眠などへの生理的欲求
(2)衣住などに関わる安全的欲求
(3)所属や友人を求める社会的欲求
(4)自身が他より優れていたいと感じる自尊的欲求
(5)成長しようと言う行動自体が目的となる自己実現欲求
と言うことになっています。この説は、その後、多くの人によって再構築されて行きます。しかし、欲求を種類分けし、それが階層化されていると言う考え方において、そして、その大まかな欲求の階層順において、この説は既に完成していたと言えます。
また、マズローは心理学者や社会学者の立場と言うより、むしろ、哲学者的な立場から、「人間の欲求はこのようにあるべき」と考えてこの説を唱えたことは、あまり、知られていません。下の欲求から満たされて行き、ある階層が満たされると、人間の欲求の次元が高くなり、仮にそれより下の欲求が十分に満たされていなくても、人間は「次元の低い」欲求にほだされる様にはならないとマズローは考えていた様です。また、この五段階は万人において共通の真理のように扱われているのも哲学的ですし、特に(獣とは違って)人間たるもの、成長を自己の目的とできるような第五の段階に到達すべきであると言う主張は、宗教的ですらあります。
このマズローの説をベースに、もっと現実的に、さらに大雑把にアルダファがまとめたのが、ERG説です。マズローとは違い、一旦低次の欲求が満たされて高次に遷移した後でも、低次に戻ることがあるとされています。ERGは各々、三段階が意味する所の頭文字で、Eは存在、Rは関係性、Gは成長を示しています。つまり、
(1)人間の存在に必要なものを求める欲求
(2)人間関係の維持発展に関わる欲求
(3)人間らしく生き、成長しようとする欲求
と言うことになります。マズローの説よりも、知名度は極端に低いですが、実用にぴったりの様に私には感じられます。
人間、食うにも困らず、取り敢えず生きていくには十分の金が手に入ったなら、人と良い関係を維持しようとし、そのことに心を砕くようになるのは、当り前と言えば当り前です。そして、そのような中で、人間らしさを獲得して行き、成長しようとするのも、また、当然でしょう。
逆に、高次から低次に戻る場合を考えてみましょう。例えば、ある職場に転職して入った人が、自分の能力を全然活かせないと感じたら、しょうがないから、職場の人々と仲良く過ごすことで、その職場に魅力をそれなりに感じ続けると言うことはあるでしょう。また、能力も活かせず、人間関係も最悪なら、割切って、カネのために働くと言うことも、勿論あり得ます。しかし、そんな人も、どうせ満たすなら高次の欲求まで満たしたい訳ですから、能力が活かせたり、人間関係が良い職場が見つかったら、カネだけの為の職場をアッサリ捨てて転職するであろうことが推察されます。
卑近な例で行くと、何らかの歩合などのインセンティブ性が、給与などにきつく反映された職場や職種では、社員の定着も悪く、人間関係も悪くなることがよくあります。それを、当然と受けとめるのは簡単ですが、説明を何かの形でしようとすると、ERG説を持出す必要が出てきます。つまり、それほどに現実的なのだと私は思っています。
②ハーズバーグの動機付け理論
私が非常に好きな理論です。ハーズバーグの理論も広い意味で、先の欲求が段階になっていることをベースにしています。その中でハーズバーグがユニークなのは、それらの欲求の対象に向きというか、種類があると言う仮説を設定したことです。
ハーズバーグは欲求を動機付けの手段と捉え、欲求の対象を動機付けの「要因」と捉えました。そして、それには二つの種類があると唱えたのです。それはまさに「動機付け要因」と「衛生要因」です。これをもって、「ハーズバーグの二要因説」とも呼びます。
「動機付け要因」は、この要因があると人はドンドン動機付けされるものです。言い替えると、なければないで、取りたてて不満ではありませんが、あれば、非常に大きな喜びにつながると言う要因です。ところが、「衛生要因」は、全く逆で、動機付けが一定以上損なわれるのを防ぐ効果があるだけで、積極的に上げる効果は望めないと言うのです。この説の中味については、この二要因が完全に別のものであると、しばしば誤解されています。実は、そうではなく、この二要因はあくまで「傾向」のようなものです。
例を挙げて考えてみます。例えば、「報酬の多寡」は、社員にとって、どのような動機付けとして働くかと言えば、「動機付け要因と言うよりは、結構、衛生要因っぽい」のような判断をすると言うことになります。これを説明すると、報酬を上げても社員は一時、チョットは喜びますが、その喜びは長続きしません(隣の芝は常に緑だからです)。しかし、報酬は上がっていることは事実なので、不満が出にくくなっているのは事実だと言うことです。これが衛生要因の考え方です。
ハーズバーグは、動機付け要因(っぽいもの)として、
(1)達成(自らが仕事を成し遂げること)
(2)承認(自身が認められ、評価を上げること)
(3)仕事そのもの(仕事をすること、継続できること自体に満足を感じること)
(4)責任(責任を持たされること)
(5)昇進(社会的に威信の大きい地位に就けること)
(6)成長(技能(仕事の処理能力なども含む)において向上すること)
を上げています。
逆に、衛生要因(っぽいもの)としては、
(1)賃金
(2)付加給付(広い意味での福利厚生など)
(3)作業条件
(4)経営方針
(5)職場の人間関係
などが上げられています。
社員からの不満の項目として、「賃金が低い、もっと貰えてもよいはずだ」と言われたら、経営者側は「自分がそれだけ働いているか考えてみろ」と感じ、「方針がはっきりしていないから、振りまわされてイライラする」と社員が言えば、「方針以前に、やるべき事をきちんとやってからものを言え」と感じる筈です。しかし、衛生要因と言うものは、なければ不満を感じやすくなるだけのものですので、不満を減ずる程度に対応すれば十分と言うことになります。なぜなら、一定以上、賃金を上げ、休みを増やし、方針を明確にして、職場をきれいに整えても、(「衛生要因」の向上によって動機付けは伸びないので、)社員がバリバリ働き始める訳ではないからです。
それどころか、私には、昨今、むしろ逆に、衛生要因が満たされていないが故に発生する不満が相対的に減って来ているように思えます。それは言替えると、動機付け要因がバッチリあれば、衛生要因などないも同然であっても、人は十分働くと言うことを指す筈です。
例えば、福井県だかの海岸にタンカー事故で大量に油が押し寄せた時に、陸からはボランティアと称する人達が多数押し寄せました。賃金などなく、福利厚生もほぼなく、作業条件は劣悪で、いつ終わるとも分からないのですから方針もヘッタクレもありません。寄せ集めなのですから人間関係も少なくとも最初は友好的なものでもないでしょう。それでも、長期に渡り働き続ける多数の人達がいました。会社を休んだり、辞めたりして来る人たちまでいたようです。ではこの人達が、ぎゃあぎゃあ、不満ばかり言いながら、海岸で作業していたでしょうか。
衛生要因は限りになくほぼ皆無に近い状態で、不満が出なかったとするなら、それだけ強烈な動機付け要因が存在したとしか、ハーズバーグの説に基づく限り考えられません。それは、目に見えて、明らかに社会に役に立つ行為をしていると言う達成感であり、その作業によって現地の人々から感謝されると言う承認であり、その仕事を続けられると言う魅力と考える他ないでしょう。
このように考えると、賃金を多く払う企業など、自ら「私の職場は動機付け要因が全然なく、面白くない状態で辛うじて既存社員も働いています。だから、新しく来る人にはせめて不満を言われないように金を多めに払います」と言っているように私には思えてなりません。中小企業の社長で、「数年後には業界標準以上の給料を払える会社になって…」などと言い出す人がいます。私には「ウチも大多数の大手の様に、ドンドン社員にとって魅力のない職場にする予定です」と聞こえます。せめて、「ウチは業界の平均値よりもチョット給料は安いかもしれないが、社員が面白く働いて、みんなに感謝されるような機会がたくさんある職場にする」ぐらいは言えないものかと私は思うのです。
「中小零細企業は金がないから、せめて他の部分で動機付けを」と言います。しかし、もう御分かり頂ける様に、中小だろうと大手だろうと、金があろうとなかろうと、金よりもっと強力な動機付け要因を模索すべきでしょう。良い成果を上げた社員には、更なるチャレンジや、その成果を他者に教える名誉ある立場を与える。こちらの方が人間性を尊重した会社運営であるからです。金がないから誉めるのでは決してないのです。
③ウェスタン・エレクトロニック社ホーソン工場での実験
これはかなり古典的な経営学の実験です。(このウェスタン・エレクトロニック社は後のGEの一部です。)この実験は、当初、作業環境の条件が生産性にどのような影響を与えるかと言うことを調べようとして、照度と生産性の相関性を探ったものです。しかし、当初の仮説通りに結果が出たなら、この実験は全く有名にならなかったと思われます。結果は、照度をかなり落としても、生産性が落ちないグループもあれば、照度に関係なく生産性はもともと低く、更に照度落せばぐんぐん生産性が落ちるグループもあったのです。
そこで、生産性に相関する主要因を、ありとあらゆる条件で組み合せたり、排除したりした結果、極めて、当り前のことが明らかになりました。それは、後に「インフォーマル組織の理論」と言われるものですが、詰まる所、組織の編成による人的組合せとは関係のない仲良しグループ(=「インフォーマル組織」)の組合せが、多くの場合、生産性を向上させ、逆に仲良しではない組合せの場面では下がると言うことです。
更に詳しく見ると、仲良しグループでも、そのグループの中で、「みんなでラクをしよう」と言うルールや認識があると、一定以上の生産性にはならないと言うことも分かりました。そして、それは経営上決まっているようなノルマよりも、グループ構成員を強く拘束したと言われています。つまり、その社員(の仲良し)グループに帰属して、そのメンバーとして行動することで発生する動機付けの方が、会社が与える動機付けよりも強いのです。
と言うことは、会社が狙う「動機付け要因」がきちんと機能するためには、インフォーマル組織が会社と同じ方向性を持っていなくては行けないことになります。会社とインフォーマル組織が向かう方向が同じなら、会社の動機付けは有効でしょう。しかし、会社が如何に動機付けしても、インフォーマル組織では別方向の動機付けをして居ると、所謂「「腐ったみかん」のような集団が社内に発生することになり得ると言うことです。
これは、実験して分かるべきようなことでもありません。ただし、単純ですが、この点を動機付けに活用することはハーズバーグの二要因説に照らしても重要です。なぜなら、
ホーソン工場の実験で分かったことは、ハーズバーグの二要因説の別の見方を明確にしました。「衛生要因」は、外部から与えるものであり、(「人間関係」を除いて)、私がよく言う「制度による」待遇・処遇の問題です。この観点から、「衛生要因」のほとんどは「外発的要因」と呼ばれます。それに対して、多くの「動機付け要因」は、対象者の心の中で感じることであり、主観の問題です。その点から、これらは「内発的要因」と呼ばれています。インフォーマル組織の研究の指し示すところは、まさに、この主観の問題となってしまう「内発的要因」による動機付けが、コントロールし難く、人やグループの性質などの条件によっては、強烈に効き、また、ある条件では、殆ど効かないようなこともあり得ることを示しています。
そして多分、その条件とは、会社が求めていることを、その人やインフォーマル組織が(ある程度)正しく認識していると言うことでしょう。
④公平説
公平説と言うのは、今までの人の欲求をベースにその対象となる「もの」や「扱われ方」が論点となった欲求諸説に対し、社員が「公平に扱われること」こそが動機付けに繋がるとし、欲求説を論じる前に、努力と報酬が公平に評価されバランスが取れているようになっているべきとする説です。
確かに、その対象者が「自分は死ぬほど努力しているのに、会社は正当な評価をしてくれない」と感じていたとしたら、誉められても嬉しくないでしょうし、新たな仕事を与えようものなら余計のこと不公平感が募るでしょう。その意味で、公平説は欲求説よりも前に論じられるべきことかもしれません。
しかしながら、公平・不公平もまた、強く主観の問題であり、その意味では内発的動機付けと同様です。と言うことは、再び、対象者やその属するインフォーマル組織が、会社の持つ評価基準を、(ある程度以上に)正しく認識していることが、公平説による動機付けには必要であるように思えます。会社が何を求め、何を良いこととして評価するか知らなくて、「公平に評価された」などと言う実感が生まれる訳がないからです。
※参考文献6:
『 モチベーション入門』
田尾 雅夫 著 日経文庫
ここまでの説を中小零細企業向けにざっとまとめると以下のようになります。
☆金や待遇を含む「衛生要因」(≒外発的要因)は、不満を減らす効果しか期待できないので、最低限のレベルに押さえ、「動機付け要因」(≒内発的要因)の充実に重点を置くべきである。
☆しかし、「動機付け要因」(≒内発的要因 含む「公平説による努力と報酬の公平なバランス」)は一般に対象者の主観の問題であり、コントロールが効き難く、意図しない結果を生むことも考えられる。その回避のためには、会社が期待していることと、その成果の評価基準を予め社員(とその属するインフォーマル組織)に十分に認識させておくことが肝要である。
☆また、「動機付け要因」(≒内発的要因)の中においては、ERG理論により、第2段階の人間関係性よりは、第3段階の成長の機会の付与や成長結果の確認の方が、動機付けとして効果的である。
私が企画運営した『商工にっぽん後継塾』の宿題で、社員が会社を辞めずにいる理由は何かを調べると言うものがありました。まずは、次期社長である参加者にディスカッション形式の小人数制定期セミナーの場で、考え得る限りの(福利厚生策や給与などの待遇なども含む)社員に対する動機付け策をブレーンストーミングで出して戴きます。そして、実際に彼らの部下である社員を、老若男女がばらける様に各自5人思い浮かべて戴き、その部下達の在職動機の主なものを書き出す様に指示しました。書き出された在職動機は、「業界的に見てかなり高水準の給与」、「経営方針に妥当性がある」などの(私にとっては)大手企業について書かれたビジネス本の受売りのような内容になります。
そこで、3週間毎に開催する次回のセミナーまでに、その部下全員に実際にインタビューし、「なぜその社員は辞めないか」の問いへの回答を用意する様に指示してみました。この後継塾は私が在籍している期間だけでも6度行いましたが、この宿題の回答結果はいつも惨憺たる状況となりました。若手社員は勿論、30代や、場合によっては40代の社員でさえ、何らかの切口で「自分を認めてくれる誰かが居る場所だから」と言う主旨の回答をするからです。「非常に親しい友人が社内にいる」ような場合もあれば、「社長が自分の仕事を評価してくれた一瞬が入社後数回あった」などと言うのもあります。漠然としたものや、かなり消極的なものも多く、「認めてくれる誰かがいる」と言うよりも、むしろ「自分の居場所がある」と表現した方が的確と思われような「辞めない」理由が明らかになりました。
その発見を面白く感じた私は、日本商工振興会在籍時に取材や営業でお会いし、最低1時間以上はお話させて戴いた中小企業経営者百人以上にそのような話題を投げかけてみましたが、強く否定する意見に巡り会うことは全くありませんでした。私はこれを“居場所理論”と呼んでいます。
中小零細企業は文鎮型組織と言われ、経営者以外の幹部も社員も意識のレベルではドングリの背比べとよく言われます。その意味では、幹部クラスでさえ、居場所理論に従った、ある意味「子供臭い」動機付けに支配されていることになります。しかし、中堅どころ以上の企業の幹部はだいぶやり手で、経営感覚もそれなりには高くなっています。このような人たちの動機付けは居場所理論によっては説明できません。この点に関して東大教授の高橋伸夫先生はその著書で、このようなクラス(大手企業の課長クラス)の動機付けは、「『(今は辛くても)組織全体が良い方向に行き、ラクになる時代が来る』と言う認識」と説明しています。これを先生は「見通し」と言う言葉で呼んでおり、それが動機付けになって、大手の課長を奮い立たせるのです。
※参考文献5:
『 できる社員は「やり過ごす」』
高橋 伸夫 著 日経ビジネス人文庫
ただ、この点は、高橋先生にも手紙を書き送り、確認致しましたが、このような「見通し」を体感して、動機付けとできるような思考レベルの幹部や社員は、中小零細企業では非常にまれであることも事実です。基本的に中小零細企業の社員全体はほぼ、居場所理論で説明できるものと私は思っています。
第3部「若手人材を理解する」
第二部では各種の動機付けの理論を紹介いたしました。理論・理屈に難解な部分が残ってはいますが、大まかな原理はご理解いただけたものと思います。また、説明した解釈はあくまでも私が個人で理解している解釈であり、厳密に見ると、大雑把過ぎる部分もあるのかもしれません。しかし、この程度であっても、実用には取り急ぎ十分であり、実用の方針を考える上で、大枠を与えてくれるものではあると思います。
高橋先生の“見通し理論”が適用されない中小零細企業の(幹部も含めた)ほぼ全員の社員に年齢・性別によらず、ある程度“居場所理論”が通用すると私が考えているのは先述の通りです。しかし、年齢が高くなると(それは、一般に職位が高くなったり、同じ会社での職歴が長くなったりすることを意味します)、やはり、“居場所”に加えて、それ以外の動機付けの要因が発生してくるのも事実のように感じます。例え、それがホンネであったとしても、50歳近い幹部が、「この会社には、自分の仕事を誉めてくれる人がいるので、辞める気など起きない」と言ったとしたら、やはり、幼稚に思えるほうが普通でしょう。“居場所理論”は若い人に適用しやすいと言うことになります。
では、なぜ、これらの年代層の人々は、“居場所”によって動機付けられやすいのでしょうか。このように考えてみると、一つ、重要なことが動機付けに関して分かります。それは、適切な動機付けの方法が仮に人それぞれであったとしても、大まかな傾向は、年齢や性別などの属性によって、ある程度括ることが可能であると言うことです。
小さな組織では、一人一人の顔を見ながら、その動機付けを的確に考えることは、理屈上可能であるので、本来、中小零細企業ではこのようなことを考慮せずとも、個別に考えれば良いかもしれません、例えば、カネよりも休みがほしい社員には、有給休暇の申請に厭な顔をしないようにし、誉められたい人間には仕事の成果をベタ褒めし、と言ったことを、個別に考えれば良いと言うことです。
一方で、「最近の若手は」と言う困惑や嘆きは、取り分けバブル絶頂の頃から崩壊以降にかけて、一気に増えているようです。単純すぎる構図ですが、「オジサンが若手人材のことを全く理解できない」と言う悩みが爆発的に増えているのも事実のようなのです。「今の若いもんは…」の嘆きは世の常で、(正確に記憶しておりませんが)古代遺跡の古文書を解読してみたら、若い連中のふがいなさを嘆いたものであったとか言う話もあるほどです。しかし、書店で書籍や雑誌のタイトルを見る限り、若手の「操縦法」や「採用法」のようなテーマは間違いなくここ十年少々で増えているように思えます。そのようなことが分からなくて困っている企業が増えているとしたら、当然、動機付けもうまく行く訳がないと想定すべきでしょう。
ですので、若手人材の動機付け策に迷った時は、彼らが特に何を欲しやすい人々であるのか、少なくとも、一般的にはどのような欲求を持っていると言えるのかを知ることは重要と見るべきでしょう。この発想で、私は日本商工振興会在籍時に、“居場所理論”がなぜ、当時から若手人材に効き易いのかをいろいろな人々に尋ねて考えてみることにしました。極論・偏見のきらいはありますが、おおよそ以下の、私のメールマガジンにまとめたような理由によるものと私は思っております。
『経営コラム SOLID AS FAITH』 (2001年4月25日発行)
第37号 『溢れる循環財』
私の知人の父が亡くなった。その人は北海道庁のお役人であった。会ったことも無いその人のエピソードで、忘れられないものがある。昔、子供の頃の知人をドライブに連れて行き、ある橋を渡ったときこう言ったと聞く。「この橋は私が作ったのだよ」
その人が趣味で土建をやっていた筈も無い。その時点では天下りもしていなかった。その橋ができたのは、その人自身の手によるものではない。彼はお役所の机に向かって、その橋を作る予算案件に判子を押したのである。
「お母さん、ここにも使われています」とあらゆるところであるメーカーの製品が使われている物を指摘して行く。少し前まで、ある金属メーカーが放送していたコマーシャルである。あれは一体誰の何のために放送されていたのだろうか。企業広告として受注にも採用にも大きく貢献したのかもしれない。ただ、私は知人の父の話を思い出すとき、あのコマーシャルが自社社員とその家族に与えるプラスの効果は大きいものと想像する。
ある週刊誌によると、「若者たちはありがとうと言われる仕事を目指」しているのだそうだ。自衛隊や消防署員を志望する者が増え、ボランティア志望者や福祉関係の職を目指す者が増えていると言う。「社会貢献型」の仕事が大人気。記事ではそう言う表現もある。では、社会非貢献型の仕事とは何なのであろうか。
子供の数少ない重要評価基準として学校の成績が定着して長いこと経ち、「面倒見のいい子」や「正義感の強い子」は夥しい数の絶滅危惧種となって行く。彼らは多分、他人から「おまえのお陰で助かった」と言われたいだろう。何の事はない、大人だって、そして「ファウスト」を読めば随分と昔から、「君のお陰で助かった」と言われたいのだ。
電電公社最後の総裁、真藤氏は数十万の職員を擁する組織の意識改革スローガンの一つとして「次工程はお客様」と説いた。その言葉は彼が検挙されようとも地に塗れることは無い。お客様はどこにでもいる。社内にさえいる。「ありがとう」と言われなければならない人もそこら中にいれば、「ありがとう」と言われたい人もまたそこら中にいる。
社員の士気が上がらない組織ができようはずは無い。
簡略に暴論でまとめると、学歴社会が確立されて、夥しい数で発生した学力競争上の“敗者”が認められる場と言うものを求めていると言うことになります。
念のため申し上げますが、学力競争上の敗者が総合的な人間の価値で劣っていると、私は全く思っておりません。逆に(、言うまでもなく)、学力が優れていても社会に出て、転職をするたびに給料がどんどん下がっていくような人を、私も人材紹介の場面で何度も見ました。個々人を見てどうとか、人間の評価をどうこう言う気はありません。ただ、一つの人間の雛型に対して仮説を立てて、その人間への接し方を考えることは合理的であるということを申し上げたいのです。人間は経験の生き物であり、その経験上作り上げられた認識の枠から抜け出ることは容易ではありません。所謂「三つ子の魂、百まで」と言う通り、かなり意識しないと、そのような枠を越えることはできません。つまり、学生時代ぐらいまでに経験したことに、またその結果構築された「社会の見方」に、長く縛られやすいことは間違いないでしょう。
もし、前述のメールマガジンにあるように、子供時代に、学力のみで評価されがちな環境に育ち、(そこにいる大多数の子供達がそうであった筈ですが、)学力が際立っていないが故に褒められること、称えられることが少ないままに育った者がいれば、その者にとって、認められる場があることは相当な喜びであるはずでしょう。また、先の「社会貢献型の仕事」のような数々のエピソードも、この説明で辻褄が合うことになります。
このように考える時、そして、企業で今「若手の社員が分からない」ことが悩みになっているとする時、やるべきことは、単にその若手人材と無理矢理にでもコミュニケーションを取ることだけではなさそうです。「三つ子の魂」の原理に基づく時、書店などに並ぶ「会社の社員育成法」の幾つかの古典的名著が成立した遥か昔の時代の子供達と、今の若者達が子供だった頃には、具体的に何がどのように変わったのでしょうか。それを理解することにも価値がありそうです。つまり、それは、学歴社会の確立に根拠を求めているが故に、その後も比較的有効であり続ける“居場所理論”よりも、さらに直近の最近まで学生時代を送っていた、今の20代前半の若手人材は、何を見て何を経験してきたかと言うことを考えて、会社に於ける20代後半以降の人材と何が異なってきているかを考えることに他なりません。
時が経てば、以下に紹介する分析も、また変わってくるでしょう。しかし、その時々の若手人材の子供時代・学生時代に何が起きていて、どのような社会認識が構築されたかについての仮説を立てて、具体的な動機付け策を検討することは合理的であることは、今後何年経っても変わらないことだと思います。以下、各種書籍や雑誌などに紹介される現在の最近の新入社員に関して、過去の新入社員とどのように育ってきた背景が変化しているかを簡単に拾って見ました。先述の「人材像の仮説立て」の粗い一例としてご覧頂けましたら幸いです。
これらの若手人材が小中学時代を送った家庭は、既に所謂「核家族化」が進んだあとです。兄弟も少子化の影響で激減しています。ですので、同居している家族の数が2~3人と言う家庭がほぼ当り前と考えて良いでしょう。テレビ・パソコンは既に家庭に存在しています。それも、場合によっては複数です。パソコンやテレビゲームの見過ぎで、体調が狂った子供が増えて、低体温児が増え、視力も低下していることが統計で発表されたりし始めました。早くて中学校、遅くても高校ぐらいから携帯電話の普及率も高まります。都市化した地域では深夜でも街に子供を見かけるようになり、24時間のコンビニが至る所で中高生の不夜城と化しています。
学歴社会と言われる時代になってから、(全く馬鹿げた「ゆとりの教育」などと言う波が押し寄せるまでは、)基本的に昔に比べて、世の中の所謂「情報化」が進んだ分、若者の持つ知識は量だけは増えていると言われます。それだけ、すれた若者が増えていることになります。
しかしながら、本を読み、思考する時間は明らかに昔に比べて減りました。長く話す時間を持てる家族は減少し、友達とも長時間話す機会は減っています。街でたむろしている若者も、カラオケボックスにいる若者も、それほど会話量は多くありません。携帯のメールも20行も30行も打つものではありません。読み・書き・算盤は学習の基本と言いますが、陰山式の学習法の説明を待つまでも無く、そのような訓練を日常の中で行う場はドンドン減少したのです。
人間の知識の体系には、最初に「データ」があります。これは単に「今日の気温は25℃」のような単なる事実を情報として認識しただけのことです。これを複数組合せると、「情報」になります。「今日の気温は25℃」と言うデータに、「昨日の温度は20℃」を組合せたり、「前年の今日の気温は27℃」を組合せることから、今日の25℃と言う温度が俄然意味を成してきます。そして、それをさらに複合して、自分の意思決定を行う過程や結果が「知恵」と呼ばれるものになります。つまり、「だから、今日は半袖の服を来て行こう」とか、「今年の夏服・冬服の入替えはもう少々延ばそう」などの判断です。なお、この三段階は、英語で言うと、「データ」、「インフォメーション」、「インテリジェンス」となります。
読書を著者とのコミュニケーションと捉えると、読み・聞くことは他者が持つ、以上の三つの段階のどれかの知識を得ることです。また、書く・話すことは通常、自分の持つ知識を伝えることです。他者との知識の交換をしようとすると(つまり、会話でよく例えられる「キャッチボール」の状態をつくろうとすると)、相手からの情報を処理するための「思考」をやらざるを得なくなります。つまり、思考訓練はコミュニケーションによって強力に推し進められることになります。
情報量は多くても、コミュニケーションの量が極端に少ないままに社会人となった若者はどのようになるでしょうか。乱暴にまとめると、昔の若者に比べ、頭に取り入れられる情報量は多くなって、ジアタマは良くなったが、思考と意思疎通においては性能ががた落ちということでしょうか。一般に「課題解決能力」が、実社会で身に付けるべき最優先の能力と言います。しかし、課題解決能力と言っても、それは普通、一人でバリバリと何かをこなすことを指しません。どのような方法でことに対処するかを決めて、それを複数の人間が組織的にこなすことを意味します。そこにはコミュニケーションが必須です。このように考えると、今の若者像が昔の若者像に比べて大きく劣っているのは、課題解決能力かもしれません。
また、面白いことに、若者達が物心ついたころから、既に日本は大不況の真っ只中でした。好景気を知らない者には不景気のどん底も実感できません。フリーターの第1世代は昭和45年ぐらいの生まれの人々だと考えられます。現在の若者が就職と言うことを考えた時には、既に確実にフリーターと言う選択肢が存在していましたし、30過ぎて尚、親の脛を齧って生活している「パラサイト・シングル」も既に通常語となっていた筈です。
一方で、不景気は最初から蔓延していましたので、一部上場企業と言えども、どんどん潰れ、経営者は画面上で謝罪会見をする人々です。(テレビやインターネットのニュースに登場する数少ないカッコ良い経営者は、殆ど皆、ベンチャー企業を立ち上げて巨富を成した社長ですが、それも、大抵は持ち上げられては、早晩、凋落して謗られます。)親の世代もバブルの絶頂から突き落とされた人々で、基本的に苦しくなりつつある家計に育った者が多く、オカミの消費動向の調査にも、お金の使い方が細かく、消費意欲の低い層として現れています。東京学芸大学の教授が行った調査で「(将来の生活は)経済的に今より豊かではなくなっている」と回答した東京の若者が38%もいたとのことです。こうして見ると彼らは、(不景気ではなく)沈滞した経済状況の中で淡々と生きていることになりますので、見様によっては、「老成している」ようにも映ることでしょう。
このような若者には、一流企業のブランドが色褪せて見えている分、中小企業が新卒社員として採用することは容易になっているとも考えられます。しかし、大手が魅力的ではなくなったからと言って、中小が魅力的になった訳では決してありません。単純にハンデが減ったと言うことでしかないでしょう。逆に正社員と言う選択肢に縛られず、派遣社員や契約社員、そしてフリーターなどの選択肢が増えてしまいました。大手と中小のような(単純な)対立構図の外に、新たな選択肢ができた分、中小企業の何が良いのかを声高に主張することが必要になったのは言うまでもありません。
※参考文献6:
『 今どきの若者は…使える!
「わからない」部下の操縦法』
舩川 治郎 著 明日香出版社
第4部「会社は新卒社員に何をどのように教えるべきかを考える」
それでは、以上、縷縷書き述べたことを踏まえ、「会社は新卒社員に何を教えるべきか」について、最後に考えて見ます。
<今までのまとめ>
まず、第2部の第1章では、
①中小零細企業の組織における人は「組織の一部として、その差別化の経営方針を理解して主体的に行動できる存在」であり、
②その「人材育成」と言う経営活動の目的は、「そのような存在を組織内に、効率良く発生させ、さらに定着させること」
とまとめました。
そして、第2部の第2章では、動機付けの様々な理論から
③金や待遇を含む「衛生要因」(≒外発的要因)は、不満を減らす効果しか期待できないので、最低限のレベルに押さえ、「動機付け要因」(≒内発的要因)の充実に重点を置くべきであること
④また、「動機付け要因」(≒内発的要因 含む「公平説による努力と報酬の公平なバランス」)は一般に対象者の主観の問題であり、コントロールが効き難いので、会社が期待していることと、その成果の評価基準を予め社員(とその属するインフォーマル組織)に十分に認識させるべきこと
⑤さらに、「動機付け要因」(≒内発的要因)の中においては、ERG理論により、第2段階の人間関係性よりは、第3段階の成長の機会の付与や成長結果の確認の方が、動機付けとして効果的であること
が分かっています。
続く、第3部では、
⑥(取分け、③と⑤の応用として) 学歴社会が確立されて以降、中小零細企業の社員全般、特に若手社員は、自分の価値が認められる場をそれ以外の社員以上に求めていると、“居場所理論”で一応説明できることを確認し、
さらに、ここ最近の新卒社員においては、
⑦昔の若者に比べ、頭に取り入れられる情報量は多くなって、ジアタマは良くなったが、思考と意思疎通においては性能ががた落ちとなり、その結果、課題解決能力が劣っていることや、
⑧一流企業のブランドが色褪せてはいるものの、就業形態の選択肢が増えてしまい中小企業の魅力の強調が必要になったこと
などを確認しました。
第4部
第1章「新卒若手社員育成の第一手を考える」
前述のまとめを振り返る時、第2部で言う所の「現場力」の向上は、非常に当り前です。当り前過ぎて、そこに盛り沢山の研修項目が全て包含されてしまいそうです。例えば、「組織の一部として」と言うのですし、「効率よく」と言うのですから、取り敢えず、現場で必要なスキルをマスターさせねばなりません。それもできるだけ早くです。では、このスキルとは何かと言うことになりますが、よく言われるスキルと言うものはカッツと言う学者の有名な説により、三つがあります。
①テクニカル・スキル(専門能力)
これは、まさに実務上必要な知識技術と言うことになります。製造部門なら、機械設備の使用方法や材料に関する知識などですし、経理なら、簿記の知識や伝票処理の流れと言うことになるでしょう。このスキルは職位の低い人ほど多く求められますが、一番低位の人でも、テクニカル・スキルだけで良いと言うものではありません。
また、中小零細企業の場合は、社員の中で職務の分担が明確になっていず、全員が複数の分野で職務をそれなりのレベルで遂行可能になっていて、その職務毎の閑散・繁忙に合わせて、社員が一丸となって業務を処理しているケースがあります。このような場合は、テクニカル・スキルだけでも、複数の分野のものを習得しなくてはならなくなります。
②ヒューマン・スキル(対人能力)
これにはかなり広範な能力が含まれます。人とうまくやっていくための、コミュニケーション能力(読み・書き・聞き・話し、そしてその結果としての理解・思考)やマナーなども含まれますし、組織としてやっていくことを考えると、所謂「会社常識」のようなものも専門分野に関わらなければこちらの範疇です。
ヒューマン・スキルは、職位に関わらず一定以上必要とされていて、中小零細企業で言うと、パート・アルバイトから社長にいたるまで、最低限、きちんと備えていなくてはならないことになります。
③コンセプチュアル・スキル(概念創造能力)
これは、事業上の課題を理解したり、現状の分析をしたり、経営の方針を立てたりするような、まさに抽象的な概念を扱う能力のことです。当然ですが、会社が組織であって(利害関係者も含めて)一人で成立するものでない以上、ヒューマン・スキルがあって、初めて成立し得るものです。
このスキルは、ある程度の以上の職位にのみ必要とされることになっていますが、中小零細企業の場合は、職位の設定がいい加減になっていて、肩書きが無くても実質的に小組織の運用の権限を会社から委譲されていたり、逆に役員となっていても、実務担当者レベルの仕事に終始していることもありますので、判断は複雑になります。中小零細企業では、かなり低い職位の人でも、求められる人には求められるスキルと考えて良いでしょう。
※参考文献7:
『 ビジネススクールで身につける 思考力と対人力』
船川 淳志 著 日経ビジネス人文庫
当初の目的に言う「主体的に…行動できる」のは多分先のことになりますが、当面、会社が利益を上げて行くための日常の足手纏いになることは極力早く回避できる様にせねばなりません。その様に考えると、その職場職場で必要なテクニカル・スキルと所謂「ホウレンソウダ(報告・連絡・相談・打ち合わせ)」を中心としたヒューマン・スキルを優先して早い段階で訓え込まねばなりません。また、この段階では、「足手纏いにならない」ことが最優先ですので、有無を言わせず、訓え込み、靴紐を結んだり、ボタンをかけるように、無意識にできる動作の集合体としてスキルを叩き込みたいものだと思ってしまいます。
しかし、ここに至るまでの道程には、私が知る中小零細企業の事例では大きく二つの論点をクリアにして臨む必要があるように思っています。
☆一つは、「OJTとオフJTのバランス」で、
☆二つ目は、「教育計画の共有」、と言う論点です。
OJTは、もう、日本語化されている程によく使われますが、「オン・ザ・ジョブ・トレーニング」の略です。つまり、仕事についている状態で受ける研修・訓練と言うことになります。ただ、全ての技術・能力と言うものは、実践を伴わなくては完全なものにはなり得ないので、研修と言うものは、すべからくOJTの実施が必然と言うことになります。これはこれで、当り前なのですが、中小零細企業に行くと、「ウチの研修はOJT一本でやっています」などと言って、ただ職場の現場に突っ込んで、聞かれるままに答える程度に放置することの口実にしているのが、一般的です。これは研修でもなければ訓練でもなく、文字通り、ただの「放置」です。
そこで、私をはじめとする外部の者が「新卒への研修をきちんとやるべきです」などと言うと、通常、オフJT(言うまでもなく「オフ・ザ・ジョブ・トレーニング」の略で、仕事から離れた状態で受ける研修・訓練です。)を実施することを連想するために、中小零細企業の経営者は、「いえいえ、ウチは大企業ではないので、そんなカネも余裕もありません」と答えます。本当でしょうか。
まず、ここで、OJTとオフJTとは何かを考えてみます。通常、職場で行うのがOJT、職場とは離れた研修室などで一般に座学で行うのがその反対のオフJTだと考えられます。しかし、この定義は研修が行われる物理的場所を言っているだけのことで、どうも本質的ではありません。例えば、職場で先輩社員に腰巾着や背後霊の如く付き纏って、その仕事振りを観察させるのは、OJTでしょうかオフJTでしょうか。このような曖昧さは、その定義を、「タイムカードの対象時間とするか否かで分ける」としても、ほぼ、同じです。勤務時間と見なすか見なさないかも、その場その場の判断で非常に難しくなってくるでしょうし、何よりもまず、「研修だって、仕事のうちなんだから、タイムカードの打刻を…」と組合的発想の議論が止まらなくなってしまいそうです。
このような話は、はっきり言って、言葉の定義の問題でしかなく、結果を出した所で、何ら生産的判断に結びつきません。私は(いろいろ異論はある方もいらっしゃるとは思いますが)、OJTは直接収益に結びつく行為をしている中で受ける指導・研修であり、オフJTは何にも実入りのない状態で行う指導・研修・訓練などのことだと考えています。
その様に考えて、先の一般的中小零細企業経営者の発言を翻訳すると、「実入りのない時間が費やされるオフJTは中小零細には合わない。稼ぎながらできる研修で社員が育つなら、そちらが優先に決まっている」と言うことでしょう。全く正論です。共感することこの上なしですが、問題があります。それは、社員のスキルの「立ちあがりスピード」の問題です。
何と言っても、企業にとって利益を削ぐのは人件費です。無駄な時間を費やされるほど、企業にとって痛いことはありません。では、新卒社員が入社して1週間(営業日5日)で、或る(手書き作業や分類仕訳などの作業を含む)伝票処理ができるようにするとします。OJTのみでことに当たろうとすると、多分、見かけ上の仕事ができるようにするまでに、1日も費やせば良いでしょう。残りの4日は本質的に何とかなっているように見えます。しかし、OJTでは物事を体系的に教えることができません。変則的な仕事が発生したり、段取り替えを行ったりするような事態が発生すると、この社員は無能の人となってしまいます。また、さらにまずいのは、気付かずに、何かの誤った作業を繰り返し、結果的に周囲の社員がそれをフォローしたりする時間が膨大に発生するリスクです。
この冒頭にオフJTを半日ぐらい加えて、
☆この仕事の重要性を説明したり、
☆業務の流れ図を配布して説明したり、
☆さらに(ここが一番大事ですが)
過去のよくある誤った作業例とその被害の大きさなどをきちんと説明。
したらどうでしょうか。
もっとやるなら、
☆関連している部署の内線電話番号表を渡したり、
☆前後の工程をやる社員の自己紹介。
をさせても構いません。
このようなことをやると、半日は確かに稼ぎにならずに無駄に過ぎてしまいます。しかし、この時間投資が、後日の新卒社員の理解を深め、ミスは未然に防げ、周囲の社員との連携もより円滑になっているため、周囲の社員が聞かれる毎に逐次答えるような煩わしさや非効率を排除することとなって来ます。このように考えると、半日の投資が多分、残り二日ぐらいで実になるでしょう。オフJTを加えた方の5日目の新卒社員のできは、実質問題として、コスト圧縮に貢献していることになると私は思っています。
ですので、テクニカル・スキルにしろ、ヒューマン・スキルにしろ、およそ新卒社員に教えるべきスキルと言うのは、適切なバランスと内容のオフJTをOJTに組み合わせることで成り立つと考えられます。この目安は、平たく言ってしますと「ある特定の業務を行うに当たって、周囲の社員が一定時間目を離していられるような、安定した最低限のスキル・レベルに1時間でも早く到達させる方法」を編み出すことに他なりません。くどい様ですが、そう考えると、現実の職場に散見されるOJTのみの構成や、ありものの教科書を読み合わせるだけのようなオフJTが如何に非効率かが御分かり頂けることと思います。
具体的なOJTとオフJTのバランスを考えた所で、先ほどの二点目の「教育計画の共有」と言うことが大事であることは論を待たないでしょう。OJTとオフJTのバランスを考えること自体が既に(大仰に言うと)「教育計画」です。さらにもっと一歩進んで、会社のライン事業と同じように、この育成を扱うべきであると私は考えています。それが、私の強調したい「教育計画」の部分です。
ラインの事業であれば、それが製造業であれば、製造計画や仕入計画を立て、当然ですが販売計画がそれに連動します。製造がなくても、小売業や卸業だろうと、基本的に計画は間違いなく何らかの形で存在します。そのように人材育成を考えると、
☆いつまでに、誰が、どの職場で、何ができるようになるために、
☆OJTとオフJTを、いつのタイミングで、どのような内容で完了するか
を大まかでも良いから考え、ざっとで良いから書面に記録することになります。
これは、先述のような、小さな規模の組織で、社員が各種の職務をこなせるようになることが前提の職場なら、より効果を発揮することでしょう。OJTとオフJTを色々な職場の分で有効に組み合せ、新卒社員を1ヶ月程度の短期間でローテーションさせながら研修を実施することになります。一つの職場でみっちり行って、辛うじてその職場で初級を終えたような新卒社員を量産することも可能です。しかし、それでは、いざと言う時(中小零細企業は、「いざと言う時」がほぼ二日に一度ぐらい来て当り前だと私は思っていますが)、新卒社員を柔軟に他の職場に持っていくことができなくなってしまいます。それであれば、該当する全ての職場で、最低限できるようになっている仕事があって、その手伝いに新卒社員をいつでも回せる体制を先に構築する方が、会社全体として見た「戦力化」や「利益維持」の観点から優れているものと思えるのです。
さらにこの教育計画の立案には意味があります。一つは、ライン事業で管理者と実務担当者がやろうとしていることがバラバラでは話になりません。先の「教育計画の共有」と言うのは、管理者(一般には社長でしょうか)、指導にあたる実務担当者、そして、指導される新卒社員が、研修をどう進めていくかに関して共通言語で話せることを意味します。もう一つの重要な点は、その改善をその年なり、四半期の実績をベースに反省し、次の採用時にさらに改善することができることです。それも、単に、「あの先生が良かった」だの、「使った資料が分かり易い」だのと言った些末な評価ではなく、「あの職場で使い物にするのに、2ヵ月掛かったのを、来期は1ヶ月でやろう」と言うようなことです。これをして初めて、まとめにあった「効率良く発生させ…」の部分が実現できます。
第4部
第2章「新卒若手社員育成の手法を考える」
第1章では、新卒社員を抱えて最初に何をやるかについて考えて見ました。当面、如何に新卒社員を「足手纏いにならない」ようにする1日も早くするかと言う命題の解決を図ったつもりです。
しかし、これでは、第4部の冒頭にまとめた人材育成の眼目には到底十分とは言えません。
☆まず、「差別化の方針を理解して…」が全く満たされていませんし、
☆「定着させる」策もヘッタクレもあったものではありません。
なぜなら、
☆第2部の第2章で確認した内発的動機付けの策が全く講じられていないからで、
☆ジアタマは良くても思考と意思疎通に劣る若手の性質も、考慮されていませんし、
☆中小企業の魅力を強調することによる(入社と言う)選択結果を追評価することもしていないからです。
そこで、第1章で行った取り敢えずの「足手纏いの回避」が動き出したと見るや、次に追っかけで何をすべきかをこの章で考えてみたいと思います。
まず、上述の☆印で列記した内容を見なおして、キーワードとなるのは、次の四つと考えられます。「コミュニケーション能力の補強」、「(差別化の事業)方針の理解」、「内発的動機付け」、そして、「課題解決能力」です。
通常、第1章で述べた当面の策がそのまま走ってしまって良いと考えられるのは、最長1ヶ月程度だと私は思っています。それは、ジアタマの良い、そして、表面上の情報を入手して今の若手社員が会社に愛想を尽かす可能性が膨らむのが、(余程とんでもないことがない限り)それぐらいのタイミングと感じられるからです。ですので、「足手纏い回避」の第1段階は(育成計画通りかそれ以上である限り)その後も続いて結構なのですが、それと並行する形で、先のキーワード4つを満たすことを、1ヶ月後ぐらいからはじめることが肝要だと思われます。
まず、内発的動機付けに付いて簡単に復習すると、私の好きなハーズバーグによれば、(1)達成(自らが仕事を成し遂げること)
(2)承認(自身が認められ、評価を上げること)
(3)仕事そのもの(仕事をすること、継続できること自体に満足を感じること)
(4)責任(責任を持たされること)
(5)昇進(社会的に威信の大きい地位に就けること)
(6)成長(技能(仕事の処理能力なども含む)においてこうじょうすること)
と言うことでした。
このうち、達成・承認・仕事そのもの・(比較的小さな)成長の4手段ぐらいが、新卒社員には適当でしょう。また、公平説によると、公平に評価して公平な結果(次の動機付け)が発生すると言うメカニズム自体も内発的動機付けでした。これで5つの手段があると言うことになります。
また、内発的動機付けは、インフォーマル組織によって歪められる可能性の高い、コントロールの聞き難い手段の集合ですので、方針の浸透が重要だと言うことも忘れてはなりません。
そうすると、第2段階で動機付けを前提にやるべきことは絞り込まれてきます。
☆追加して教えるべき内容は、
差別化であり、顧客満足の経営方針をブレークダウンして教え込むこと。
☆追加して鍛錬する対象としては、
思考と意思疎通の徹底した訓練で、課題解決能力を養うこと。
☆そして、その結果に対して、
先の5要素である動機付け手段を縦横無尽に使いこなすことです。
まず、差別化であったり、顧客満足の経営方針を浸透させることについて考えてみます。このような抽象的なものを教えるのは難しいと言う風に誰もが感じるのではないかと思います。実は、この方針と言うものは、全然難しくはありません。単に日常の仕事の中で意識して考えたことがないだけのことです。つまり、教える側に精神的な負荷がかかるだけのことです。
当たり前のことですが、方針と言うのは、経営者だけが、誰かに聞かれて、仕方なく考えて、忘れない様に紙に書いたもののことではありません。日々日常の仕事の中で判断規準となっている統一された価値観のことだと私は思っています。「なぜ、Aと言う仕事よりも、Bと言う仕事の方が優先して片付けられるべきなのか」とか、「なぜ、お客様からの電話をぞんざいに扱ってはいけないのか」とか、「なぜ、一見、儲かる様に見える仕事の引合いを断らねばならないのか」などなど、社員や幹部が(最初は「社長にこう言ったら怒るだろうなぁ」などと想像しながら)理解し、身に付けた価値観と言うものがどこの会社にも普通に存在します。これらは、聞けば当り前の様に答えが返って来ますが、聞かれもしないのに、「なぜ、ここはこのようにしなければならないか」を説明することは意識的に行わなくてはできません。
顧客満足の経営方針などというと、壮大な様ですが、詰まる所、「お金を払ってくれる人が、少しでも余計に嬉しくなって、余計にお金を払いたくなるか、今度もまた払いたくなるか、そう言う風に仕向けるために、徹底しよう」と言うことでしかありませんから、それに全てをつなげて、日常の作業を説明することは間違いなく可能です。挨拶、電話応対、ファクスの字の書き方、送るタイミング、営業のし方、納品の方法、ありとあらゆる「作業」が顧客満足の方針から説明できます。
新卒社員に単に「今日は、請求書を折って封筒に入れて」と言うのではなく、「請求書って言うのはさ、やっぱ、お客さんが最後の快くお金を払ってくれるようにする道具な訳よ。だから、折り方だって、向こうがぞんざいに扱われているような印象を出させる訳に行かないし、送り先の部署名がちょっと間違っていても、馬鹿にしていることになるでしょ。だって、名刺をきちんともらっている訳だから。そしてさ、この作業をきちんとしておくとさ、今月はどこの会社の売上が、ウチを一番支えてくれているかとかも分かるし、担当の営業のうち誰が頑張っているかも分かるでしょ」などと説明できることは山ほどあります。
差別化の方針の説明もほぼ同じです。今のような説明に、「こんなことをきちんと積み重ねていくと、結局、多少値段が高くても、『やはり、あの会社にお願いしよう。こう言う仕事なら、あの会社は間違いなく確実にやってくれる』と言う風になるでしょ。お客さんの頭にまずウチの名前が上がってきて、そのまま、仕事につながる様にするって言うのが差別化って言うことなんだからさ」と追加すれば良いだけのことです。
説明ばかりで本当に良いのかどうかと思われるかもしれません。しかし、説明なら、手を動かしながらでもできますので、先輩社員の生産性も大きく損なわれません。それに、このようなことこそ、新卒社員が、座学で学んでも、頭の中に浮かんでくる「だから何をどうすれば良いのか」と言う問いに対する重要なポイントです。何においても説明できる筈であるなら、しつこく、しつこく、何においてでも説明してやるべきです。
また、このような人が社内に一人しかいないのでは、ただの薀蓄好きに見えるだけで、信頼性がありません。ですので、新卒社員が主に接する人々のうち、過半数、または、3人以上が、同時並行で徹底してこれを行うのです。子供がよく、「あのおもちゃを買ってよ。学校でもAちゃんも、Bちゃんも、Cちゃんも、みんな持っているよ」と言います。大抵、みんなの根拠は三人以下です。クラスの1割にも満たないような数字です。人間の情報認識など、その程度のもので、数人が寄って集って同じようなことを言うと、その説が主流になります。
これは大人でも同じです。私は大手出身の中高年人材が苦労が予想される中小企業に転職した場合には、「まず、嘘でも良いから、人一倍努力して見せなさい。そして、あなたの話を聞いてくれる人、同意してくれる人を3人作りなさい。それができたら、間違いなく、会社の中で自分の意見が通るようになります。それまでは、それだけを続けるべきです」とアドバイスしていました。
何にせよ、簡単なような、難しいような、中々判断に苦しみますが、以上が「差別化の方針、経営の方針の浸透」の多分、王道です。そして、このような行為の積み重ねが、(例のホーソン工場での実験で分かった)職場のインフォーマル組織の、経営的に不利益な方向への暴走を防ぐのだと考えられます。
これができると、ジアタマの良い新卒社員は、早晩「はい。Aさんも言っていました。やはり、ここでも顧客満足なんですね」と感じるようになり、「十分耳にタコができました」と、言葉にして言い返してくるようになるでしょう。そうしたら、次のチャンスが来ます。「なるほど、よく分かった。いやいや、○○君がよく分かっていると言うことがよく分かったよ、さすがだね」などと言って、「じゃあ、○○君、今日、君が見た△△君がやっている仕事を君がやるとして、もっと、顧客満足が増えるようにするにはどうすれば良いか、紙一枚で良いから書いてみてくれ」などと指示できます。
当たり前のことですが、理解したこと、少なくとも入力されたことを、反芻する所から思考は始まります。日常やっていることを題材に執拗に思考するようにしむけ、それを尋ねさせ、まとめさせ、読ませ、さらに記録させるようなサイクルに新卒社員を入れ込んでしまうこと。これが、第二点の「思考と意思疎通の徹底した訓練で、課題解決能力を養うこと」になります。
第1段階でも、最低限のヒューマン・スキルの研修として、ホウレンソウダの基礎が叩き込まれています。第2段階では、これに捻りをいれて、思考と記録を促す様にするだけのことです。これも原理は極めて簡単です。なぜなら、思考とコミュニケーションが充実した所に発生するべき課題解決能力を養うには、先述のように、「データ」よりも「インフォメーション」を、「インフォメーション」よりは「インテリジェンス」を常に求める様に仕向ければよいからです。
それは例えば、こう言うことです。
新卒社員のA君が、「○○さん、今日来客予定の△△さんが、予定を早めたいと電話してきました」と言って来たとします。第1段階なら、「了解、ありがとう」で済みます。第2段階では、早まる来客予定を「データ」と捉えて、「じゃあ、その前後の君のスケジュールは大丈夫なのかも、チョッと調べてみて」と言えば、「インフォメーション」を求めていることになります。さらに、「じゃあ、早まる分、資料の準備とか、どうしたら合わせられるか考えて」とか、「その分、早く終わるだろうから、空き時間を有効に使えるように、その先の何をするかも考えて」などと言えます。ここまで来ると、「インテリジェンス」の域です。
これだけでも、面白くはありません。どうせなら、こっちが要求する前に、A君から言わせたいものです。そうでなければ第4部の冒頭にまとめた「自主的な行動」とは言えません。「早まるそうです」と言って来たら、「で、アンタもオレも、それで大丈夫かどうかも確認してセットで報告してね」とか、「当然、対応策、考えてあるんだろうね」とか、「じゃあ、早く終わったら、茶でも飲んで時間潰すってことかい」などと、どんどん、一筋縄では行かない思考訓練を構築できます。
ここまで来ると、言うまでもありませんが、このような経緯を仮に書面で交わすようなプロセスを強要したとします。すると、否応なく、読み・書きが避けられなくなります。それも、メールのような数行では話になりません。もし、怠惰のあまり、数行で終わらせたいなら、それでも良いのですが、その場合は、数行にまとめる思考能力や表現能力を鍛えて頂くまでのことです。
ノートを与えて、規定のテーマについて書かせて提出させる。教えたことをノートにまとめさせて、習ったことをそのまま今後のマニュアルにさせる。それを口頭で発表させる。発表した内容を聞かせる。内容を聞いただけでは素通しかもしれませんから、当然ですが、復唱させる。こう言うことを、さらに応用編で意図的にやって頂くだけで、コミュニケーション能力は、そして結果的に課題解決能力は磨かれて行きます。
第4部
第3章「新卒若手社員育成の動機付け考える」
さて、ここまで来て、とうとう、第2章で掲げた3つのポイントの3番目「先の5要素である動機付け手段を縦横無尽に使いこなすこと」を考えてみます。
私の好きなハーズバーグは動機付けに関わる要因を、その機能から、満足度を上げる「動機付け要因」と不満を減らす「衛生要因」に分類しました。しかしながら、これは単に日本に紹介された時の誤訳かと私は疑っていますが、ハーズバーグが二要因論を展開する二種類の要因は、満足を増やすのであれ、不満を減らすのであれ、どちらも広い意味で動機付けの要因なのです。つまり、私は、本来、「動機付け要因」と言うのグループが全体としてあり、そのうち、満足度を上げるのが「満足向上要因」で、不満を減らすのが「不満減少要因」とでも命名すれば良かった様に思います。
では、動機付けを行うのはいつでしょうか。この問いの答えから動機付けを考えてみたいと思います。前述の様に「衛生要因」も動機付けのネタと捉えると、その中には、報酬なども入っています。また、「動機付け要因」の方も、承認も達成も、仕事をやったら発生することです。つまり、事を為した後に、行うのが当たり前と言うことになります。動物の例えは不謹慎かもしれませんが、芸をする前にエサを与える猿回しはいません。
ここで、新卒向けに「使えそう」と判断した5つの手段を並べると、
①達成
②承認
③仕事そのもの
④(比較的小さな)成長
⑤そして、公平に評価して公平な結果が発生すると言うメカニズム自体。
と言った所になります。
ここで良く見ると公平説による⑤は曲者です。⑤は「公平な結果」と言っていますが、これは何でしょうか。結果は通常、報酬です。しかし、ハーズバーグに拠れば、報酬は「衛生要因」ですので、あまり与えたくありません。では、他の動機付け策を与えてはどうかと考えてしまいます。すると、動機付け策である⑤が、再び次の動機付け策を誘発することになります。これを、③と組合せると、会社として便利至極です。仕事を与えるそのものが動機付けです。それを終わらせると、その結果が公平に評価され、応分の“報酬”として仕事がさらに配分されます。そして、また同じサイクルが反復され、永遠に続きます。こんな馬鹿なことがあるでしょうか。私はあると思っています。原理だけを書き殴ってしまうと、非現実的な様ですが、①~⑤までを総ざらえで組合せると、私は結構いけると思っております。それがうまく行かないのは、単純に会社が側がそのようなことを意識して、挑戦していないからです。
例えば、「やる気のある若い社員が折角入ってきたのだから、彼らには好きな仕事をさせてやりたい」と言う経営者がいます。好きな仕事をする機会を公平に与えるのであれば、⑤の手段を使ったことになりOKです。しかし、今までの社員にはできなかったと勝手に、経営者が断じ、新入社員(それが仮に経験豊富な中高年の中途入社社員であっても)にはできる可能性を感じるからやらせる、と言うのは誤りであることになります。
なぜなら、エサはやってから与えるもので、それも、先述のように、給料の不足分を補うような機能さえある訳ですので、「好きな仕事ができる」ことをエサとして、通常の仕事をまず頑張ってもらえば良いことです。最初から、「好きな仕事をさせてあげよう」と言えば、それ以外は嫌いな仕事と言うことになり、本人が選んだ「好きな仕事」で挫折してしまった場合、他の仕事に回せなくなります。
また、言うまでもありませんが、このようなことは既存社員の⑤による動機付けをも損ないます。入社して最初から好きな仕事を選べるのであれば、既存の社員が「社長、一旦私は退職して、その翌日から再入社させて下さい。なぜならそれを機会に嫌いな営業を辞めて、内勤の仕事に行かせてもらえそうだからです」と言って来たら何と答えるのでしょうか。「その方が、勤続年数が0クリアになるので、君の人件費が下がる。そう言うことなら、ウチも大歓迎だ」とでも言うのでしょうか。
「好きな仕事」にせよ、「承認」にせよ、「達成」にせよ、詰まる所、会社に貢献するために努力を惜しまなかった者が勝ち取るべきものです。金一封の代わりに、連続休暇や社宅の代わりに、日々の指示や言葉遣いがあることを、中小零細企業で人の上に立つ者は、もっと、もっと、意識すべきだと私は思っています。まるで原価500円のトロフィーのように、まるで筆ペンで書いただけの賞状のように、もともとの物資的価値とは別の所に価値が発生することは自明なのですから。
では、新卒社員の場合、具体的にどのようなことをすれば良いでしょうか
先の5つの手段を具体的にしてみましょう。
☆自社の組織人として位置付けること
先述のように、会社方針に従って理解を進めさせる。仕事も選ばせない。指揮命令もハッキリさせる。仕事をプライベートに優先させる。これは面白くないことの連続の様ですが、ズバリ言ってしまうと「大人扱いしている」ことになります。また、組織の一員として認めている訳ですので、十分に「承認」の動機付けを果たし得ます。例えば、制服の貸与なども、ポンと渡さずに、恭しく、意味ありげにやりたいものです。
軍隊、右翼、警察、ヤクザの4つの組織は、看板を掛け替えただけで、構造は全く同じと言う話を聞きます。多分、それ以外にも何かのプライドを拠り所として運用されている組織はたくさんあることでしょう。暴走族だって、刺繍一つにまで拘り、それが、自分が選び、自分を選んでくれる集団への帰属を高める演出となっているのです。
☆(存在も成果も)認めること、
すぐに誉める、意見を聞く、すぐに叱って訂正する、腰軽くサポートする、上から言われたことを下の人にマル投げしない。こまめに接していると認識させる、と言った所でしょうか。上の「組織人としての位置付け」と共に、先述の“居場所理論”の具体的動機付け手法と言うことになります。
☆機会を公平に与える
これは先述の通りです。子供の運動会で1等賞を与えないと言う話を聞いたことがあります。なぜなら、2等賞以下の子供が傷つくからだそうです。「みんなが努力したのだから、みんなが1等賞」。私は最初にこの話を聞いた時に、耳を疑いました。
2等賞以下の子供に、次に向けて頑張る様に動機付けすることもできなければ、努力を具体的にサポートするような自信もない。さらに、その子が1等賞を取れるものを見つける努力をする。私は自分も自分の子も、このような人間に託してみる程に奇特ではありません。
会社は利益を出すための組織なのですから、会議の席であっても、積極的な意見を持つ者や、その点に習熟した者に発言させます。挑戦する機会を誰にでものべつ隈なく出しはしません。成功確率の高そうな者か、これから成功確率を(自分の成長と共に)高められる潜在性を持った者に与える筈です。そして出た結果を公平に評価すべきなのです。そして、それを、多くの動機付け要因と少々の衛生要因にして返してやるべきなのです。
☆成長を確認させること
新たな仕事に取組んでいる経過や、取組み終わった結果に関して、「何を間違ったか考え、訂正させる」、「何ができるようになったかを確認させる」、「何ができるように成り得るのかを考えさせる」と言うことを頻繁に行うことが重要になるでしょう。これは口頭でも良いですし、文書化しても構いません。場面も、サシでも構いませんし、打合せの場などで、「それなら、A君にやってもらっても良いでしょう。結構彼はうまいですよ」と言うような発言を意図的に行うだけでも全く違います。
なお、動機付けの手法として、ジョブ・エンラージメントとジョブ・エンリッチメントと言うのがあります。ラージは「大きい」ですから、エンラージメントは「大きくすること」です。同様にエンリッチメントは「豊かにすること」です。
ジョブ・エンラージメントはある仕事をしている社員に、その前後の工程をできるようにさせて、“成長”させることです。『ムダとり』の山田日登志氏のセル生産方式などもこの究極の形と考えられます。これに対して、ジョブ・エンリッチメントは、その仕事に対する計画を立てさせたり、品質管理や工程改善の権限などを与えて、その仕事の上位の仕事を任すことです。
どちらも、成長を明らかに確認させることのできる、動機付け的な仕事の与え方だと考えられます。(いえ、ここでは、むしろ逆で、「仕事の与え方」的な動機付け手法だと考えられます。)
☆ハードルを上げること
端的に言うと、未知の仕事を任すか、任しているように演出することです。常に無理だと思われるような微妙に高いハードルを設定すれば、日常の仕事でもこの演出は可能です。
100%をできる人間が、毎日80%しか必要な仕事をし続けたら、早晩、80%しかできない人間になります。常に新たな挑戦が混じっているような仕事のやり方を強いることは重要です。ハードルが高すぎては、やる気が萎え、ハードルが低すぎると、安易過ぎます。「できることの2~3割増が目安」とよく聞きますが、余裕のない中小零細企業のこと、きちんと目をかけ、手をかけすることを前提に、私なら5割増ぐらいを新卒社員には求めたいと思います。
第2部で述べたアルダファのERG理論によれば、「第2段階の人間関係性よりは、第3段階の成長の機会の付与や成長結果の確認の方が、動機付けとして効果的である」とのことでした。であれば、単なる“居場所理論”による居場所づくり(≒人間関係性による動機付け)よりも、成長の可能性や成長の結果を体感できる場の方が、社員を惹き付け、自ずと定着率も上がる筈です。
例えば、彼らが学校で経験した文化祭だって、ある種「千里の道も一歩から」のプロジェクト運営に他なりません。皆、金をもらっている訳でもなければ、社宅が保証されている訳でもないのに、夜の夜中まで準備を行っているようです。それであれば、会社だって、目をかけ、手をかける先輩社員を中心に混ぜ、プロジェクトチームのような形で、大きな課題に取組むべきだと私は思います。
いっそ、『プロジェクトX』のDVDでも10話分ぐらい見せて、ディスカッションしてから、コトに臨んだらどうでしょうか。「ウチの社員の質はそんなに凄いもんじゃないので…」などと尻込みする社長さんにも、演出を如何にし、如何に面白いことと感じさせるかを、もっと、もっと考えてみてもらいたいと感じることが、私はよくあります。
そして、それを仕向ける際には、その必然性をきちんと説明した上で、平然と指示し、成果が出た暁には、ベタ誉めして、最大限の内発的動機付けを返します。
このハードルを通常よりもさらに高くしたような内容に、それはつまり、本人にとってだけではなく、会社にとっても未知の内容に、取組んで行くことが、多分、人材育成の第3段階となるでしょう。そしてそれは、第2段階での関与以上に、新卒社員を指導する者や周囲の社員までがより深く関わった大きな動きとなるでしょう。
会社で幹部などをしていた人には、よくお話を伺うと、大抵「あの会社の状況で、まさか自分がそんなことをできるとは思っていなかった」と言うような“自分だけのプロジェクトX”のような体験談が存在し、それを話す時の本人は、誇らしげで嬉しそうです。社員が一生、その様に感じられる体験を提供できる場は、企業以外にはそうそうないと私は思っております。
あとがき 「若手社員によって変わる会社」
景気が悪いので、採用を手控えると言う話をよく聞きます。大体にして、「景気が悪い」と言う理由自体が、言い訳じみていますが、それ以上に、採用と人材育成を見送ることには、本質的なデメリットがあると私は思っています。
確かに如何に努力しようとも、新卒社員を雇った直後は短期的に経営は苦しくなるでしょう。それは、彼らに払う人件費負担が、コスト・パフォーマンスとして思わしくないからもありますし、まともに指導しようとすると、指導係の生産性がドンと落ちて、逸失利益が無視できなくなるからでもあります。中小零細企業では、新卒社員が入ると、パート・アルバイトを解雇し、その仕事をOJTとして与え、当面のコスト・パフォーマンスをあげようとする所もあります。これが中期的に見て、若しくは、短期的に見ても、望ましいと、私が思っていないことは、もう、お分かり頂けると思います。
そんなことをするぐらいなら、本当に(これも先述の)コンセプチュアル・スキルを要求されるような部分だけを組織と見なし、それ以外のアルバイトは「資源」として認識して、資源確保に努めた方が、余程潔いことと思います。
社員(それは、恒常的に自社で働く者総てを含む概念で捉えるべきでしょうが)として雇うからには、そして、組織の一部としての人を雇うなら、もっとその行為から最大限の効果を引きずり出すことが、「経営」であると、私は思っております。
第4部の説明にもある通り、実際の方針浸透や、動機付けは、既存社員にも「昨日と同じ今日、今日と同じ明日」の反復を否応なく見直させることでしょう。そして、「方針の当然の適用結果」と言う強烈な光で、全社のあり方を照らしてみることに結果的になることでしょう。それが、新卒社員採用の最大の効果の一つです。
もう一つの決定的な効果もあります。それは、企業経営の鉄則中の鉄則、「ゴーイング・コンサーン」を保証することです。ゴーイング・コンサーンとは、法律によって人とされた法人組織が永続することを前提とすると謳ったもので、企業経営論の全ての前提として存在すると私は思っています。如何に他社を退けようとも、如何に潤沢な資金を持って他社を買収しようとも、その会社の方針を受け継ぐ者が絶えてしまっては、ゴーイング・コンサーンは保証されません。
そして、最後にもう一つの重大な効果があります。それは税金の支払い以上に、そして、地域の盆踊りへの献金以上に、絶大な効果を持つ社会貢献です。私のメールマガジンでも紹介した、ビル・トッテン氏の考えを紹介したいと思います。
『経営コラム SOLID AS FAITH』 (1999年11月25日発行)
第3号 『自販機のある生活』
米国に住んでいて、一番不便であったのは、ソフトドリンクの自販機が少ないことだった。私が帰国してから既に8年、今はどうであるか知らないが、大都市でも、地方都市でも、日本のように路地に整然と自販機が並んでいる風景は見たことが無かった。友人に、尋ねると、「そんなことをしたら、車で自販機ごと持っていかれてしまうじゃないか!」と驚かれた。郵便受けを家から遠く離れた道路脇にぽつんと立て、新聞配達は玄関前に新聞を投げ捨てていくこの国で、他にも盗まれそうな放置物はあると感じるが、やはり、キャッシュが詰まった路上の金庫である自販機を外に置いておくことはできないらしい。
ビル・トッテン氏は、その著書で、日本のガソリンスタンドで働く若者を賞賛している。全く無人であったり、半無人状態のガソリンスタンドでは、望むべくも無い清潔で行き届いたサービスが日本では受けられる。合理化・効率化を推し進めて、無人のガソリンスタンドが並ぶかの地では、通勤途中のOLまでもが男女平等とばかりに、スーツに落ちたガソリンの染みに舌打ちしながら給油している。
しかし、トッテン氏が賞賛するのは、サービスの良さ自体ではない。企業が若い人を教育し、その職場を確保している点であった。氏によると、合理化追求の結果、こうした職場が無くなり、無職の若者が多くなったことが、米国の治安悪化の最大要因であるという。端的にいうと、アメリカ人は、ガソリンの価格などに見られる効率性追求の結果の代償として、カージャックの危険に甘んじ、高い税金を払って無職者への福祉と刑務所の維持運営を実現しているということになる。
坂口安吾が「堕落論」で言うように、絵画や建築そのものではなく、人々の生活の中に文化が在るのなら、働き感謝される場を人々に提供するのは、立派なメセナ事業ではないか。数億する絵をロビーでおっかなびっくり展示するよりはるかに素晴らしい。
「米国では既に…」。かの国を見習うばかりのこんな論調が、どこでもかしこでも聞かれる。いい所掬いの情報で全ては分からない。車を持っていない私にはガソリンの価格はどうでも良いが、歩けば5分以内に自販機がある生活をしたいと思う。
そして、最後に、今回も参考文献としてその著作を紹介した、染谷和巳氏の一文を紹介します。最高に練られた、人材教育の本質だと私は思っております。
『平成社員道 上司が「鬼」とならねば部下は育たず』
染谷 和巳 著 プレジデント社
二十七章 『少し離れて客観的に「会社」を眺める』
社会は、「どうぞ人を立派に育ててください」と会社に要請している。会社には人を育てる時間とお金のゆとりがある。会社は社員の能力を伸ばし、人格形成に寄与することによって社会に貢献する。社会は、そのお礼にその会社の商品を買う。会社は、その商品やサービスを社会が支持しているから存続できるのだ。それは「人を育てる」と言う貢献に対する、社会の感謝の証である。