或る日の店長との会話
「市川さん、ウチの副主任のCのこと、どう思いますか」
「なんか、この前、御社の計数の試験に受かったとか言ってましたよ。副主任でも優秀なほうに入っているんじゃないんですか」
「ああ。そういう所は良いんですが、評価は低いんですよ。ウチは接客を重視しているじゃないですか。その接客が心がこもってなくてダメなんです」
「そうなんですか。えっと、どれ…(監視カメラのモニターを見る)。ん。C君は、これか。なんかちゃんと接客しているように見えますよ」
「それ、音がないからです。会話なんかしてやいないですからね」
「どんな会話が御社の方針の接客なんですか」
「Cの接客はマニュアル通りなんですよ。それは或る意味優れているんですが、お客ごとに違うことを言えるのがホスピタリティの第一歩じゃないですか。お客を見てないんじゃないかと思いますよ、あいつは」
「じゃあ、お客ごとに違うことを言えたら、一応マルなんですね。それもお客を見て個別のネタを言うと、一応心がこもったことになる…と。じゃあ、そういう研修をしましょう」
実際に店舗の現場で発生しているシーン
この店舗の本部が作った接客マニュアルは非常によくできていて、グループ全体でそのマニュアルを使った接客教育が念入りになされていました。元々オタク的でコミュニケーションが苦手だったC君は、新入社員で入社して現場に配属された当初、マニュアルをゲームの攻略本のように読み込み自分のものにしました。マニュアルと寸分たがわぬ接遇ができることをほめられたことが嬉しくて、マニュアル通りの接遇をどんどん反復強化するようになっていたのです。
私はC君にボイスレコーダーを持ってもらい、お客様からは見えないように小型のマイクを襟元につけてもらいました。録音された2時間分の彼のお客様との会話をじっくり聞き込んでみると、9割以上が本部作成のマニュアルに従った内容でした。高齢のお客様に対して、「最近、体調はいかがですか」も無ければ、自転車でよく来店されるお客様に対して、雨の日に「今日はいつもの自転車じゃなくて、歩いてお越しですか。ありがとうございます」もありませんでした。
個別カスタマイズ研修の企画と実践
私はまず大型書店に行ってマンガのキャラの描き方のテキストを買ってきました。それをC君に見せ、お客様の似顔絵を1日お客様一人分1枚描くように指示しました。似顔絵かきの時間は一時間以内として、その分店長に残業を付けてもらうことにしました。
似顔絵は自分にとってその日印象に残ったお客様のものを描くようにしましたが、その際に、監視カメラの映像などを参考にはしないようにし、すべて思い出して描くように指示しました。一時間以内に描けなかった場合には、その絵を破棄してもらい、また改めて別の日に一から描き直すようにしました。
一週間が過ぎた頃、似顔絵の精度は少し上がって来ました。それと共に、C君は接遇時にお客様の顔をまじまじと見つめるようになり、お客様によってはそれを不審に感じている様子だと主任が私に言って来ました。そこで、私はC君に言いました。
「じっくりお客様の顔を観察するのは良いけど、C君も、ほら、じっ~っと(じっと、C君の顔を至近距離で見つめる)見ると不気味でしょ。だから、じっと見る時は、ニコニコしながら見て『お客さん、眉、カッコイイ形ですね』とか形とか色とかほめるようにして」。
すると、それをきっかけにわずかながらC君とお客様とのマニュアにない会話がぎこちなく始まるようになりました。
第二週目、私は今までC君が描いた似顔絵にプチキャラのような胴体や持ち物を描くように指示しました。そして観察する際に「お客さん、これ良いですね。どこで買ったんですか」と尋ねるようにさせました。これもすぐに軌道に乗ったので、第二週目の後半には、顔の横に吹き出しをつけて、よく言う口癖を書き込むように指示しました。
第三週目。今まで観察中に尋ねたことの答えを似顔絵脇にメモしてもらうことにして、それを覚えるように指示しました。第三週目後半。最後に、覚えた事柄とお客様が変わったことがあれば、たとえば「あれ。お客様、以前のカバンはもっと小さかったですよね。海外旅行で買ったやつ。今のはまたかっこいいですね」と言うように指示しました。
カスタマイズ研修後の様子
「いやあ、市川さん。本部から特定の社員の残業が多すぎるって怒られましたよ。けど、まあ、Cも主任に昇格の目処が立ったんでよかったです。Cの接遇はまだロボットみたいですけど、あれはあれで努力しているんだなと、お客さんは分かってくれているようで。一応好評ですよ」と店長は、再訪問した私に笑って言いました。